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豊中運動場100年(47) 早大がシカゴ大と3連戦/東京で全敗、雪辱期して

早稲田大との試合のために豊中運動場に向かうシカゴ大の選手たち

 大正時代の初め。野球の本場である米国から野球チームが来日するとなると、それは国家の一大事だった。選手が到着する駅頭では知事や市長が出迎え、試合会場はどこもお祭り騒ぎになった。
来日した米国のチームはまず東京で慶応や早稲田などと対戦。続いて関西に転戦し、豊中運動場で試合をするというのが恒例だった。実力ではまだまだ米国チームの方が上だったが、「追いつけ、追い越せ」と奮闘する日本選手にどこの会場も沸いた。
1915(大正4)年10月。シカゴ大学チームが来日した。全米1の実力を持つと言われていたチームの遠征に野球ファンならずとも注目が集まった。
シカゴ大は関東で早稲田大と4試合、慶応大と3試合行い7戦7勝。当時、日本で最強といわれた早慶両チームに負けることなく大阪に乗り込んできた。豊中運動場で予定されたのは早稲田大との3連戦。日本選手が一矢を報いることはできるのか。早稲田大の安部磯雄野球部長は「豊中での試合は早稲田にとって雪辱戦。選手は努力の上にも努力して名誉を回復しないといけない」と決意を述べている。
 第1日の10月19日。晴天に恵まれた豊中運動場には朝早くから観客が詰め掛け、弁当やパンを売る露店の売り声が響き渡った。
 午後3時15分、早大の先攻で試合が始まった。シカゴ大は1回裏にキャービン選手の中前適時打で先制、2回裏にも犠飛と適時打で2点を追加した。一方早大打線は、シカゴ大の主戦・ジャーデン投手に押さえ込まれる。190センチの長身からの力強い球を攻め切れず、4安打に抑えられ零封負けを喫した。2回からマウンドに立った岸投手が3回から6イニングを無得点に抑えたのが唯一の好材料だった。
 第2日の翌20日。早大は来日初登板のシカゴ大・ジョージ投手を初回から攻めた。四回まで7四球の乱調に付け込んで、無安打ながら序盤で3点を先取。「今日は勝てるぞ」と早大応援席は大興奮に包まれた。しかし6回裏にシカゴ大は犠飛と捕逸で2点を挙げて同点に追い付く。救援に立った岸投手が7回裏には勝ち越し打を打たれ、シカゴ大が逃げ切った。終わってみれば安打数は、早大2本に対しシカゴ大が8本。安打の差がそのまま得点差になった。
 これでシカゴ大は来日9戦で9勝。豊中運動場の最終戦で雪辱はなるのか。(松本泉)

▽10月19日
早稲田大 000000000=0
シカゴ大 12000000×=3

▽10月20日
早稲田大 012000000=3
シカゴ大 00001220×=5
 

シカゴ大学

更新日時 2015/07/10


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