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豊中運動場100年(46) 日本球界初の全国組織/豊中で華々しく発会式

豊中運動場で開かれた日本野球協会の発会式を伝える大阪毎日新聞の1915年10月11日付記事

 第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が豊中運動場で開かれた1915(大正4)年ごろ、日本の野球はあらゆる意味で全国バラバラだった。
 典型的なものは野球規則だった。米国の規則を翻訳したものを使っていたが、訳し方や解釈がまちまちでしばしば混乱した。中等学校野球の第1回大会では「11カ条の試合規則」を独自につくっている。
 野球を教えることができる指導者も少なかった。野球人口を増やすためには小中学生をきちんと指導できる人材を育てることが急務だった。
 また野球人気が高まるにつれてさまざまな大会が各地で乱立した。全国大会や全国大会への出場権を争う大会を開くためには、全国で乱立する大会を調整する機関が必要だった。
 そんなバラバラだった野球界をまとめようと、1915年10月、豊中運動場で生まれたのが日本初の野球の全国組織となる「日本野球協会」だった。
 中等学校野球の全国大会が開かれたのを契機に、第1回大会が開かれた豊中で全国組織を設立しようとの機運が高まる。日本の近代スポーツの誕生を支えた東洋1のグラウンドは、野球を全面的にバックアップする全国組織誕生の舞台にもなった。
 目的は「日本的に野球を発達普及せしむる」こと。委員は22人。当時の野球界を支えていた早稲田や慶応、三高、神戸高商などの現役選手、OBが名を連ねたほか、大阪毎日、大阪朝日両新聞社の幹部も加わった。また大阪、京都、神戸の3市長のほか箕面有馬電気軌道、阪神電鉄の役員、大学教授、銀行頭取などが賛助員として運営を支えることになった。会長には中等学校大会で副審判長を務めた平岡寅之助氏が就任した。
 活動の柱は3つあった。1つは小中学生への野球指導で、特に中等学校に対しては積極的にコーチを派遣することにした。2つ目は主催者がバラバラだったさまざまな大会の仲介と調整。そして3つ目は2カ月に1度委員が集まって野球規則を検討し、運用や解釈を統一させることだった。
 発会式は10月10日。京阪神の中等学校から選抜された選手による発会記念の紅白戦が午前11時から行われた。京阪神の13校から選抜された18選手が出場。平岡会長が球審を務める中で、高レベルの試合を展開し日本野球協会のスタートを飾った。
 日本野球協会がこの後、具体的にどのように活動し、どのような成果を挙げていったのかについては残念ながら記録がない。野球を愛し、野球の発展を願う人たちが、豊中運動場で誓いを新たにしたという軌跡が残っているだけだ。(松本泉)2015.06.15

全国中等学校優勝野球大会 日本野球協会 平岡寅之助

更新日時 2015/06/15


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