豊中運動場100年(33) 豊中で山陰代表決定戦 全国大会開幕3日前に
全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)の第1回大会は、1915(大正4)年8月18日に豊中運動場で開幕、会期5日間と正式に決まった。当初は3日間の予定だったが全国から10校が参加することになったため急きょ2日間延ばした。
次々と出場校が決まる中で、最後に出場を決めたのは山陰代表の鳥取中(現鳥取県立鳥取西高)だった。それも全国大会開幕の3日前に豊中運動場で杵築中(現島根県立大社高)と決勝を行うという前代未聞の事態になった。
島根、鳥取2県で代表1校を出場させたことからわかるように、当時の山陰勢の実力は極めて高く、野球人気も相当なものだった。人気が高いだけに応援は過熱を通り越していた。2年前の1913年に開催した山陰大会で、米子中(鳥取)と松江中(島根)が対戦したときのこと。米子中の応援団が木刀や竹ざおを振り回して松江中の応援団席に乱入し大乱闘になった。憤慨した松江中は試合を放棄して帰ってしまう。
両県の遺恨は根深く、以降は山陰大会を開けなくなった。この年の山陰代表決定戦も「島根、鳥取のどちらで開いても危険だ」となる。結局、全国大会開幕の直前になって「豊中でやるしかない」と決まった。
8月15日は日曜日。島根と鳥取の因縁の対戦が豊中で開かれるとあって観覧席は超満員になった。以下は「大社高等学校野球部史」に沿って振り返ってみる。
1回裏に杵築中が先制したのに対し、鳥取中は3回表2死満塁から四球を選んで押し出しの1点を挙げて同点。杵築中が6回裏に敵失で勝ち越せば、鳥取中は直後の7回表に左前適時打で同点に追いつくという1点を争う好ゲームになった。
試合を決めたのは9回表の鳥取中の猛攻。適時打に敵失も絡み一挙に3点を挙げて勝利をつかんだ。鳥取中の鹿田一郎投手が11奪三振と好投。杵築中は結局安打を1本も打てず勝敗を分けた。
杵築中の不調には理由があった。
真夏の大阪に乗り込んできた杵築中選手が目にしたのは、街角で売っているイチゴ味やレモン味の氷水。当時、島根ではめったに見ることのない色鮮やかな氷水に飛びつき、ほとんどの選手が腹を壊してしまった。加えて試合当日の朝に食べさせられた餅が下痢をさらに悪化させる。地元では5月5日の端午の節句についた餅を食べると戦いに勝てるとの習わしがあり、かびだらけの餅をたらふく食べていた。
主将の千家剛麿投手は体調を崩さず投げ続けたものの、攻守交替なのに手洗いから出てこられない選手がいたり、下痢がひどくて歩けなくなる選手が続出。無念の涙をのんだ。
試合後、千家主将は鳥取中ナインに対し「今までは敵だったがこれからは味方だ。豊中に残って善戦してほしい」とエールを送ったという。
山陰代表が決まり、全国大会は間もなく開幕する。(松本泉)
【山陰代表決定戦】
▽8月15日、豊中運動場
鳥取中 001000103=5
杵築中 100001000=2
更新日時 2014/10/21