豊中運動場100年(28) 第2回日本オリンピック 初日のクロカン/注目の金栗選手は及ばず
1915(大正4)年5月1日に開幕した第2回日本オリンピック大会。初日のメイン競技は豊中―宝塚間約20キロのクロスカントリーだった。本格的なマラソン大会はまだなく、この年の国内最大の長距離走競技だった。
コースをたどってみよう。
豊中運動場をスタートした選手は能勢街道を北上、池田町へ。池田からは箕面有馬電気軌道に沿うように西進する。中山街道、伊丹街道を経て武庫川岸を生瀬まで向かい、折り返して宝塚新温泉でゴールインする。
途中に「関所」と名付けられた関門が設けられた。池田師範付属小学校前の「池田関所」▽中山街道と伊丹街道の交差点の「小浜関所」▽中山寺山門前の「中山寺関所」▽生瀬村・武庫川西岸の「生瀬関所」の4カ所。関所には監視員のほか、医師と看護師を配置して救護体制を整えた。
また、箕面有馬電気軌道は応援者を全面的にバックアップ。最寄り駅での乗り降り自由の「クロスカントリー観覧全線回遊大割引券」を31銭(通常51銭)で発売し、いくつかの停留場に電車を留め置きしてレースに合わせて臨時運転した。
最有力はストックホルム五輪のマラソンに出場した金栗四三選手(東京高等師範)だった。翌年のベルリン五輪でのメダルが期待されていただけに、参加176選手の中で最も注目を集めた。
午後3時。
太鼓の合図でグラウンド中央の位置についた選手は号砲で一斉にスタート。赤れんが壁に沿って豊中運動場の外周を1周した選手は能勢街道へと向かった。
池田では万国旗が張り巡らされ、民家の2階まで鈴なりの人であふれた。レースは高津金治選手(24)=香川県豊浜青年会=と西浜康重選手(26)=大阪市北区=が抜きつ抜かれつの大接戦を繰り広げる。中山寺の山門前も、武庫川の堤も応援の人であふれ、2人の接戦に歓声を上げた。フィニッシュの宝塚新温泉には大久保利武・大阪府知事や池上四郎・大阪市長ら数千人が集まる中で、宝塚歌劇団員がオリンピアマーチを斉唱して選手を待ち受けた。
激しい競り合いの末、1位でフィニッシュしたのが高津選手で記録は1時間14分4秒。西浜選手は6秒遅れて2位となった。
高津選手は「20歳すぎまで堂島の仲買人の店員で相場表配りに足を練っていますから走ることは十分の自信を持っています」と喜びを語った。一方、注目の金栗選手は15位に終わる。へんとう炎で時折血を吐くほど体調を崩しての参加だった。「中止するのも不本意なので強いて出場しました」と無念さをにじませた。(松本泉)2014.07.23
更新日時 2014/07/23