豊中運動場100年(26) 2年ぶり日本オリンピック 極東大会の代表を選考
1915(大正4)年。豊中運動場は開場3年目に入った。
前年は全国レベルの大会が開催されず寂しい一年だったが、3年目のこの年は豊中運動場の名を歴史に刻む記念すべき年になる。
第2回日本オリンピック大会の開催社告が大阪毎日新聞の1面に載ったのは4月3日だった。第1回大会は豊中運動場開場記念として1913年10月に開いたものの、翌年は昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の逝去により喪に服するとして中止となった。
服喪期間が明ける5月1日、2日の開催が決まる。社告は「欧州の戦乱はついに帝国をして世界的大戦争に加入せしめしをもって、国民の責任は従来に比して幾層加重せられしとともに今後ますます心身の健全に力を致すの必要を加えたり」と宣言した。
前年に勃発した第1次世界大戦は泥沼状態に入っていた。日本は連合国側の一員として参戦していたものの戦火が直接及ぶことはなく、逆に大戦景気に沸き始めていた。「五輪出場選手の発掘、育成」を目指して始まったアスリートのための大会の趣旨は少しずつ変化していた。
2年ぶりに開催される日本オリンピック大会は、国際大会に直結する大会となる。
5月15日に中国・上海で開幕する第2回極東オリンピックの日本代表選手の選考大会と位置付けられたからだ。国内大会が国際大会出場選手の選考に使われるのは初めて。豊中運動場から世界に向けて選手を送り出す最初の機会になった。
各レースで優勝した選手を対象にそれぞれの記録を基に選考することになる。出場選手の意気込みは一段と高くなった。
競技種目は第1回大会と同様に五輪種目に準じて決定。100メートル▽200メートル▽400メートル▽800メートル▽1500メートル▽5000メートル▽110メートル障害▽200メートル障害▽ハンマー投げ▽砲丸投げ▽走り高跳び▽棒高跳び▽走り幅跳びの13種目。このほか、目玉競技として豊中運動場スタート、宝塚新温泉フィニッシュのクロスカントリーレースなどを織り込んだ。
極東オリンピックの代表選考を兼ねるとあって国際レベルを維持することが至上命題となった。トラックは京都帝国大学の工学部教授と土木工学科のスタッフが計測。記録計測には従来のストップウォッチに加えて、10分の1秒まで正確に測定できるキモグラフイオン装置を準備した。
観覧席にも手を加えた。外壁に沿って造った観覧客用の土盛りには全て芝生を植えた。観客は土の上に直にすわらなくてもよくなったのに加え、青々とした芝生がグラウンドの周囲に広がり豊中運動場全体が落ち着いた空間になった。
日本オリンピックは一段とレベルアップして開幕を迎えた。(松本泉)2014.06.16
更新日時 2014/06/16