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豊中運動場100年⑱ 日本オリンピック 幻に終わるラグビー試合

豊中停車場から豊中運動場へのアクセス道路。当時は綿畑の真ん中を貫く直線道路で観客があふれたという。現在は静かな住宅地になっている

 豊中運動場で1913年10月に開かれた日本オリンピック大会では、陸上競技以外の種目もプログラムに組み込まれた。テニスや女子バスケットボール、ラグビーだった。とりわけラグビーは注目と期待を集めた。
 ラグビーは「ラグビー式蹴鞠(しゅうきく)」と呼ばれ、当時の市民はほとんど見たこともない競技だった。慶応や同志社、第三高等学校でラグビー部が創部したばかりで、対抗戦もほとんどなく市民が試合を見る機会はなかった。記録が残っていないため断言できないが、日本オリンピックが初のラグビー試合を開催する大会になっていた可能性が高い。
 大会前に大阪毎日新聞はこのようにラグビーを紹介している。
 「進むも退くも相応じて互いに自己を犠牲にして決して個人的な功名を許さざることにあり。剛強なる体力と緻密なる能力なくんば到底勝利を制せんこと難きはまた文明的」
 続いて、競技時間と審判、競技の始め方、得点の挙げ方、競技用語などを詳細に解説。たとえばタックルは「球を持てる者が敵に捕らえられたるをいう。タックルせられたる者は直ちに球を地上に置くべし。しからざれば規則違反となる」と説明している。この文章だけの解説でどれだけの読者がラグビーをイメージできたかは不明だが、選手同士が激しくぶつかるイギリス生まれのボールゲームを初めて見ることができるとあって陸上競技以上に注目された。
 ラグビーは最終日の最終種目である5000メートル走の後に予定。同志社大学と第三高等学校のラグビー部が模範的競技試合を行うことになっていた。ところが5000メートル走の途中から降り始めた雨が激しさを増し、もともとぬかるんでいたグラウンドが泥田のようになった。陸上仕様のグラウンドをラグビーコートに整備しなおすことが困難になり試合は中止。その代わり選手たちがタックルやスクラムなどを30分間披露した。
 初のラグビー試合は幻に終わったが、5年後に豊中運動場で開催する「日本フートボール優勝大会」への大きな布石となる。
 大会後、日本オリンピックの記録映画が各地で上映されると爆発的な人気を呼んだ。人気は海外にも広がり、10月末にはハワイ活動写真商会から上映の打診があった。またロンドンの日活出張所から「ぜひ上映したい」と注文が届く。豊中運動場での熱戦は海外でも注目を浴びることになった。(松本泉)
=2014.02.08

日本オリンピック 第三高等学校 日本フートボール優勝大会

更新日時 2014/02/08


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