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豊中運動場100年⑧ 「夏の甲子園」の原点誕生

創部直後の1910年ごろの市岡中野球部の選手たち。京阪神では屈指の強豪校として人気が高かった

1913(大正2)年7月12日の大阪毎日新聞にこんな小さな記事が載った。
「関西学生連合野球大会は京阪各学校長並びに各新聞社の賛助を得いよいよ八月一日より四日まで豊中運動場において開催すると決したるが出場希望団体は来たる十八日までに大阪市北区船大工町大江橋北詰美津濃運動具店宛申し込むべしと」
 2年後に開催される第1回全国中等学校優勝野球大会(後の全国高校野球選手権大会、夏の甲子園大会)の原点ともいうべき関西学生連合野球大会の告知だった。
 水野利八氏が大阪市で創業した美津濃運動具店(現ミズノ)は、野球ボールやグラブなどの野球用具を販売していた。大の中等学校野球ファンだった水野氏は、豊中運動場が完成して野球の試合ができると聞き、「日ごろからボールやグラブを買ってもらっている選手に、日本一のグラウンドで野球をしてもらいたい」と自ら大会を計画した。
 当時の中等学校野球は各校の対抗戦が中心。1901(明治34)年から第三高等学校が主催する関西連合野球大会が、翌02年から愛知一中などが中心になって東海五県連合野球大会が開かれていたものの、中等学校の野球大会は全国でも珍しかった。新聞社もまだ中等学校野球に直接手を出しかねていただけに、美津濃運動具店の主催と聞いて「なんと物好きな」との陰口さえささやかれた。
 豊中運動場の評判は6月の日米野球戦の開催で一気に上がっていたこともあって申し込みは順調だった。京阪神の20校が参加を決める。東海地区の強豪・愛知一中などにも参加を呼び掛けたが、地元での試合予定が入っていたため参加できなかった。
 一方で、市岡中、北野中、神戸一中、京都一中などのOB選手が現役選手との混成でつくったクラブチームも参加。クラブチーム同士の対戦カードが組まれた。
 大会の詳細を企画したのは市岡中を卒業して早稲田に入学したばかりの佐伯達夫氏(後の日本高野連会長)だった。佐伯氏は自伝の中で「水野さんの真面目な態度に感じ入ったので企画の中心となり立ち働いた。豊中グラウンドは当時としては一流中の一流。この大会の出現が全国大会を創造する兆しをつくったといっても過言でない」と述べている。
 真夏の豊中運動場で、中等学校野球の画期的な大会が始まろうとしていた。(松本泉)

 ◇第1回関西学生連合野球大会参加校
 四条畷中、八尾中、関西学院、市岡中、平安中、伊丹中、北野中、東寺中、京都二中、御影師範、京都中、大阪商業、明星商業、滋賀師範、桃山中、明石農学校、今宮中、天理中、天王寺中、京都第一商業
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第58号(2013年12月121日)

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更新日時 2013/08/12


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