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豊中運動場100年⑦ 思い知る関東との実力差

開場したばかりの豊中運動場でプレーする選手たち=1913年6月

  1913(大正2)年5月に開場した豊中運動場は、6月開催の日米野球戦で華々しくお披露目した。現在の高校野球や高校ラグビー、高校サッカーの発祥の地、陸上選手権大会や社会人野球の原点はここにスタートした。
 一部の観覧席は事前の予約が必要だったものの、入場料は無料。場内では、競技のじゃまにならなければどこでも観戦できた。高さ1メートル程度のれんが塀越しでよければ場外からも十分に観戦できたため、場内外は足の踏み場もないほどの観客で埋め尽くされた。
 6月の日米野球戦では、日本ホテルが場内に臨時出張所を設けてサンドイッチやハム、ソーセージを販売した。物珍しさも手伝ってあっという間に売り切れた。また帝国鉱泉が、炭酸水「平野水」やサイダーを販売すると、こちらも飛ぶように売れ、豊中運動場の目玉商品になる。
 豊中運動場は総合グラウンドとしてつくられており野球場専用ではなかった。バックネットはもちろんバックスクリーンもなく、外野フェンスにあたるものもなかった。
 「外野には青々とした芝生が植えてあった」という証言が残っているが、陸上競技やラグビーにも使っていたことを考えると、単なる草であった可能性が高い。中等学校の野球大会の記録に「草むらで打球を探している間に打者が還って本塁打になった」という話が残っている。
 一方で普段は学校の校庭などで試合をしている選手にとって、豊中運動場のファウルグラウンドの広さはずぬけていた。「どこまで追い掛けていいのか戸惑った」という選手のコメントが残っている。
 6月21、22日に米国スタンフォード大と戦った慶応大は23日、神戸高等商業学校(現神戸大)と対戦した。日米野球戦のために関西遠征した慶応大が豊中運動場での対戦相手を公募したところ、神戸高商が名乗りを上げた。
 神戸高商野球部は同志社、関西学院などと並ぶ歴史を誇り、関西では数少ない官立専門学校(今の国立大学)のチームとして人気を集めていた。「強豪の慶応にどんな戦いを挑むのか」と約3000人の観客が詰め掛けた。
 三嶋弥彦氏によるシングル審判で午後3時半に試合開始。
 慶応大は、連戦の疲れが大きいエースの菅瀬一馬投手らレギュラー選手をはずし、準レギュラー選手で試合に臨んだ。慶応大は初回、四球と失策に乗じて一挙に6点を先取。その後も4回に2点、6回に3点を加え、11対0で完勝した。一線級の選手で臨んだ神戸高商は無安打、7失策といいところなく敗れた。
 関東では慶応と早稲田が海外遠征などで着々と力をつけ、大学や高等学校、専門学校チームの実力を底上げしていた。この日の試合は関東との実力差を思い知ることになり、神戸高商にとっては豊中運動場での苦い思い出となる。
(松本泉)

神戸高商 000000= 0
慶応大  600203=11
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第57号(2013年11月14日)

豊中運動場 神戸高等商業学校 菅瀬一馬 平野水 帝国鉱泉

更新日時 2013/07/22


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