豊中運動場100年② 観客誘致策実り大盛況
現在の高校野球、高校ラグビー、高校サッカーの発祥の地であり、陸上選手権
大会や社会人野球、日米野球の原点にもなった豊中運動場。今年が開場100年
にあたる。
豊中運動場は箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が建設し運営した。箕面有馬電
気軌道は1910(明治43)年3月に梅田―宝塚間と支線の箕面―石橋間で営
業運転を開始。関西では各地で私鉄の開業が相次いだが、箕面有馬電気軌道の沿
線は田畑や雑木林が延々と続き、人家はまばらだった。そのままでは採算性は厳
しかった。
そこで打ち出されたのが大規模な住宅地開発と娯楽施設の建設。大阪市内で増
え始めたサラリーマン層をターゲットに利用客を新たに生みだそうというもので、
当時としては画期的な手法だった。娯楽施設としては、1910年に箕面動物園、
翌11年に宝塚新温泉を相次いで開設、現在の宝塚歌劇団につながる宝塚唱歌隊
も誕生した。豊中運動場もその中の一つとして開設されたものの、単なる娯楽施
設ではなく全国のアスリートを集めるスポーツの殿堂としての期待を担っていた。
箕面有馬電気軌道は、豊中運動場に事前予約制の無料団体観覧席を設けたり、
梅田―豊中間の往復割引切符を販売したり、スポーツ大会に合わせて宝塚新温泉
で記念イベントを開くなど観客誘致策を次々と打ち出した。おかげで、大会が開
かれれば駅は乗客であふれ、観客が大挙して詰めかける大盛況が続いた。
ほとんどのスポーツ大会が学校の校庭で行われていた時代。本格的な総合多目
的グラウンドは全国初だった。東京では1909年、東京湾の埋め立て地に羽田
運動場が建設された。当初は野球場だったが、後に陸上競技場も整備されてスト
ックホルム五輪の予選会場として使われたり、遊園地や海水浴場が併設された総
合娯楽施設として人気を集めた。
しかし、交通の便が良くなかったうえに水はけが悪く、試合中に地中からシャ
コが飛び出してくるようなグラウンドだった。1916年の水害で大きな被害を
受けるなどして衰退する。関東での本格的な総合グラウンドの誕生は、神宮外苑
競技場が完成する1924年まで待たなければならなかった。
豊中運動場は大正時代を通じて、日本を代表する総合多目的グラウンドだった。
(松本泉)
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第52号(2013年6月13日)
更新日時 2013/05/14