豊中運動場100年③ 試行錯誤のグラウンド工事
現在の高校野球、高校ラグビー、高校サッカーの発祥の地であり、陸上選手権大会や社会人野球、日米野球の原点になった豊中運動場は、大正時代のアマチュアスポーツの殿堂だった。
ただ、計画・建設期の記録や資料はほとんど残っていない。どのような計画が立てられたのか、どんな建設工事が進められたのか。日本初の本格的な総合グラウンドの完成までの様子は、数少ない資料に頼るしかない。
施工主となった箕面有馬電気軌道は、豊中運動場が開場した翌年の1914(大正3)年8月、同運動場周辺の約16ヘクタールの広大な造成地を豊中住宅地として売り出す。箕面有馬電気軌道は1910(明治43)年の開業早々から、池田室町住宅地、桜井住宅地と相次いで沿線の住宅地開発を手がけていた。豊中運動場は、豊中住宅地の開発に先駆けた目玉事業として、開業当初から計画が立てられ、1911年後半には着工したようだ。
もともと綿畑だっただけあって水はけは良かった。起伏のない平坦な土地でグラウンドに整備するには適していたといえる。
しかし当時の日本で本格的な総合グラウンドをつくった例はない。設計・工事のための専門技術を得るのは並大抵ではなかっただろう。当時の大阪毎日新聞には「グラウンドは特に斯道の専門家を聘(へい)して設計したるものにして」とあるが、試行錯誤が続いたに違いない。
実際の工事にあたっては重機などない時代。資材の運搬には牛馬を使い、作業のほとんどが人力頼み。雑木林の木陰がつかの間の休息所だった。
単に土地を平らに造成すればグラウンドができるというものではない。水はけ、土の質、土の硬さなどに特別の配慮が要る。
大阪毎日新聞はこう評した。「土質もグラウンドとしては実に申し分なく殊にダイヤモンドの如(ごと)き最も苦心の余になり塁守のシートの如きも特に光線の直射を避くるに意を用ひたれば広さにおいても設備においても日本一の理想的最新式グラウンドといふも決して誇張にあらざるべし」
1913年4月に工事が完了、5月1日が開場日とされた。しかし、翌6月に入って専門家の進言もあり、ダイヤモンド部分を30センチほど掘り返す再工事を行っている。掘り返した土をすべてふるいにかけ、砂を入れて地ならしをし、牛が引くローラーで地固めした。約2週間の再工事で豊中運動場のレベルはさらに上がった。
真っ赤なれんが塀に囲まれて完成した東洋一の質と設備を誇るグラウンドは、まもなく完成記念の日米野球戦を迎えることになる。(松本泉)
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第53号(2013年7月13日)
更新日時 2013/05/20