豊中運動場100年① 東洋1の大グラウンド
ちょうど100年前の1913(大正2)年5月1日。豊能郡豊中村新免(現
在の豊中市玉井町)に、国内初の本格的な総合グラウンドがオープンした。
豊中運動場。現在の高校野球、高校ラグビー、高校サッカーの発祥の地であり、
陸上選手権大会や社会人野球、日米野球の原点にもなった。しかし、日本のス
ポーツ史に輝かしい1ページを刻んだにもかかわらず、わずか9年で閉じられた
こともあり、その存在はあまり知られていない。
豊中運動場は、東西150メートル、南北140メートルで、高さ約1メート
ルの赤いれんが塀に囲まれていた。面積は2万1000平方メートル。総面積3
万8500平方メートルの阪神甲子園球場の5割強の規模だった。
グラウンドとしては野球場のほかに、ラグビーやサッカーなどのフィールドと
して使用。1周400メートルのトラックを備えた陸上競技場でもあった。また、
800人程度の観客が収容できる木造の観覧席を設置。収容しきれない場合は観
覧席の前に縄を張った臨時観覧エリアがつくられ、フィールドやトラックの間際
まで観客であふれたという。
箕面有馬電気軌道豊中停留場(現阪急電鉄豊中駅)から、西に約300メート
ルの直線の専用道路の突き当たりが正門。周辺にはほとんど人家がなく、れんが
塀の向こうには綿畑や雑木林が広がっていた。
周囲では鳥がさえずり、グラウンドにはしばしば季節の虫が現れたというから、
戦いの場とは思えない牧歌的な風景が広がっていた。当時の大阪毎日新聞に書か
れた「場外一帯を一般観覧場に充つべければ優に2、3万の群衆を容るべし」は
多少大げさとしても、周囲には何もなかった。学校の校庭程度のグラウンドしか
知らない当時の人たちは、「東洋1の大グラウンド」とうたわれた広大な運動場
の出現にさぞ驚いたことだろう。
市民スポーツは大正時代に一気に花開く。生のスポーツを観戦したい、実際に
スポーツをやってみたいという市民が爆発的に増えた。それまではスポーツとい
えば水泳や武術が中心だったが、野球やラグビーなどが注目を集め始める。豊中
運動場は常にその中心に存在した。
1922(大正11)年までの9年間の豊中運動場の軌跡をたどりながら、日
本のスポーツ大会の黎明(れいめい)期を検証する。【松本泉】
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第51号(2013年5月9日)
更新日時 2013/05/01