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心にしみる一言(398) 50年の市役所生活で一生懸命やってきた施策が通じなかった

大震災記念・人と防災未来センターの展示

◇一言◇
 50年の市役所生活で一生懸命やってきた施策が通じなかった

◇本分◇
 神戸市はかつて「株式会社」と呼ばれ、自治体が街づくりの主役となる「公共デベロッパー」という言葉を生んだ。その「社長」が、市職員、市長を務めた故・宮崎辰雄さんだった。
 阪神大震災の発生は、市長を退いた後だった。震災から1カ月ほどした時、宮崎さんインタビューしたことがある。都市経営の手法と震災の関連性についてだったが、示唆に富んだ言葉が多かった。神戸市は都市整備の柱に戦災復興事業を据え、そのことを背景にして、取り上げた言葉が出てきた 
 第3次神戸市総合基本計画を1987年に策定し「市は震災、火災、治山、治水、交通安全、防犯対策など総合的な安全対策を進めていく」とした。しかし宮崎さんは「関西は地震が少ない、というのが定説で、油断はあった」と語った。以下は、インタビューでの宮崎さんの言葉。
◇(地震に)全く無関心だったわけではない。断層が通っている団地があり、ひびが入ったのを機に、建て直したことがある。しかし、こんなにエネルギーのある直下型地震には、思いが及ばなかった。六甲山トンネルや新神戸トンネルの工事では、断層の部分から水が吹き出した。それを「神戸ウォーター」として売り出し、むしろ財産のように考えてしまっていた。
◇被害を最小限に食い止めるには、堅ろうな建築物の都市にするしかない。堅ろうな都市は高くつく。神戸も、堅ろうな建築物が多いが、それでも、こんな被害になってしまった。古い建物が残っていた所が、やられてしまった。
◇(火事で大きな被害が出た)JR新長田駅一帯は、戦災復興事業で取り組んだ。しかし、駅前だけを整備した形になり、奥まった所までは手が回らなかった。戦災で焼け残った地域で、そこがやられてしまった。
◇戦災復興事業は、地方にとって有利だった。最初は国が8割を負担し、県1割、市1割。国の財政がひっ迫して、国と市が半分ずつとなり、いま(1995年時点)は国の補助金がなくなった。政令指定都市では名古屋と神戸が積極的だった。神戸は市内全体で510万坪を戦災復興事業で都市改造した。他市にない積極的な施策で、この事業がなければ、被害はもっと広がっていた。
(梶川伸)2023.01.13

更新日時 2023/01/13


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