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心にしみる一言(379) 母が可愛がっていた犬や猫にも協力を求めた

取材させてもらった人は栗林公園の近くに住んでいた。

◇一言◇
 母が可愛がっていた犬や猫にも協力を求めた

◇本文◇
 1996年から97年にかけて、毎日新聞の記者として高松市で勤務し、週に1回コラムを書いていた。先日、コラムの一部を読み返し、時代の流れを感じるものがあった。それは「認知症」という言葉だった。
 認知症の母を支えた女性から聞いた話をもとに、コラムを仕立てた。その文章に、認知症という言葉は出てこない。「痴呆」という表現になっている。痴呆もまだなじみがなかったのか、初出は「痴呆(ぼけ)」と説明していた。彼女が世話人をしている団体の名も「痴呆老人をかかえる家族の会」だった。
 調べてみると、厚生労働省が2004年に痴呆から認知職に表現を変えた。コラムはその7年ほど前。それから認知症をめぐる状況は大きく変わったが、彼女から聞いた話は、今でも心に残っているものが多い。以下は、コラムの要約。(認知症の表現は、当時の痴呆をそのままにする)
 彼女がの行動のおかしさに気づいたのは、痴呆が初期を過ぎて中期に入った時だった。回覧板が回ってきても、母がどこに置いた覚えていない、といったことなどがきっかけだった。彼女は勤めていて、母を施設に入れるか、仕事をやめるか、悩んだあげく、母の面倒をみることにした。「親を捨てられなかった」
 実際に介護をして、大変なことになっていることを痛感した。母はやっと保護者を見つけたように、彼女について回った。それまで、昼間は1人だったので、寂しかったのだろう。
 同じことを繰り返し話しかけてくる。トイレの場所がわからない。服の脱ぎ方がわからない。やがて徘徊(はいかい)が始まり、かぎを壊してでも外へ出て行こうとする。「背中をアンテナにして、母の動きを察知する生活」だった。
 イライラが募り、そのイライラが母に反映して、母を追い詰めてもいった。「親が崩れていく姿を認めたくない」という、子供としての感情も働き、心のかっ藤がひどくなった。
 母が骨折で入院したことがあった。その時、夫が病院での介護を交代で引き受け、夫も大変さに気づいた。やっと、家族全員の協力が得られるようになった。1階に住んでいた母を、家族が住む2階に移し、みんなで介護をした。「子供2人のほか、母が可愛がっていた犬や猫にも協力を求めた」と、彼女は振り返る。
 「痴呆老人が繰り返して話すのは、前のことをを忘れているため。こちらも聞いたことを忘れてあげればいい。対応が優しくなれば、本人の感情の状態もよくなる」
 「おばあちゃんが『物忘れするようになった』と言えば、『大丈夫、忘れてもいいよ。みんな、おばあちゃんのことをよく知っているから』と語るように、優しさを伝えればいい」(梶川伸)2022.06.

更新日時 2022/06/15


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