心にしみる一言(332) 狩野山楽が青い顔料を入手するため、銀銅山の権利を持っていた
◇一言◇
狩野山楽が青い顔料を入手するため、銀銅山の権利を持っていた
◇本文◇
多田銀銅山は兵庫県猪名川町、川西市、大阪府池田市にまたがる広い区域に坑道を持っていた。奈良時代に採掘が始まり、1973年に閉山するまでの長い歴史を持つ。
銀を採掘したは猪名川町の部分だけで、ここは多田銀山とも呼ばれた。その1つの坑道「青木間歩(まぶ)」を、友人たちと訪ねたことがある。
資料案「悠久の館」に車を停め、そこから500メートルほど歩いて行く。銀山川に沿って進み、川の反対側には切り立った岩の山が見えた。金山彦神社を通りすぎると、橋を渡って青木間歩がある。
ここは昭和の坑道で、日本鉱業が掘っていたらしい。中に入ると、50メートルほどで行き止まりになった。
帰りに悠久の館に寄った、職員は親切で、多田銀山について丁寧に説明してくれた。
大阪城の建設の際に、ここの銀を資金にしたという。最盛期には3000世帯1万人余りが居住したらしい。
岩山の話を出すと、自殺の場だったという。「珪肺(けいはい)などになって体を痛めても、ご飯は食べさせてもらう。それが申し訳ないと思い、自ら命を絶つ人もいた」
1番印象に残ったのが、取り上げた言葉だった。青の顔料は貴重で、狩野山楽は藍銅鉱の青色(紺青)を求めたそうだ。フェルメールにしても山楽にしても、青への執念を感じる。(梶川伸)2021.09.13
更新日時 2021/09/13