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豊中運動場100年(98) 東京4大学、年末年始に合宿/練習試合は超満員

高校野球発祥の地記念公園では豊中運動場で実際に使われていた赤レンガに触れることができる=豊中市玉井町で

 1917(大正6)年、早稲田大、慶応大、明治大の3大学リーグ連盟に法政大が加わり、4大学リーグ連盟が結成された。後に立教大と東京大が参加して東京六大学野球が誕生する。大正期の日本の野球を代表するリーグ戦として、実力、人気ともに高かった。
 豊中運動場は当時、この4大学リーグ連盟と深く関わっていた。1918年からは毎年、年末年始にいずれかの大学野球部が冬季合宿を行った。単に自チームのトレーニングにとどまらず、対戦の申し込みがあれば、たとえ相手が中等学校でも練習試合に応じた。
 関西では「お正月は豊中運動場に行けば東京の4大学の野球の試合を見ることができる」と評判になる。寒風が吹きつける季節で、年末年始の慌しい時期であるにもかかわらず、多くのファンが豊中運動場に詰め掛けた。
 早稲田や慶応、法政が、なぜ豊中運動場を冬季合宿地として利用し続けたのか。
 豊中運動場を運営した阪急電鉄の創始者・小林一三が慶応大を卒業しており、そのつながりで慶応野球部を熱心に招致した可能性が高い。他校のグラウンドを借りるよりも自由に使えることから、慶応以外の野球部も利用するようになったのだろう。
 また宿舎には宝塚温泉の旅館を使うことが多かった。温泉で体を休めることができるし、宝塚と豊中を往復するだけであれば都心の歓楽街に立ち寄ることもできない。冬季のトレーニングには最高の環境だったに違いない。
 1918年末は早稲田、1919年末は慶応、1920年末は法政、1921年末は慶応が豊中運動場で冬季合宿しており、1922年5月に閉場する直前まで利用されていたことがわかる。
 1918年末は、早稲田が12月25日から翌1月4日まで滞在した。このとき合宿に参加した野球部員19人のうち11人が関西の出身者だったこともあり、故郷に錦を飾った選手も多かったようだ。
 早稲田は、関西の中学や大学から有力選手を集めた「全関西」チームと2回対戦した。12月31日にも全関西との試合を行った。大みそかの午後3時から始まる試合を見に来る人がいるのだろうかと危ぶまれたが、豊中運動場は大入り満員となり大歓声に沸いた。
 翌1919年末は、慶応の野球部員14人が12月22日から翌1月7日まで合宿した。「申し込みがあればどのチームとの練習試合も受けるし、チーム指導のコーチにも応じる」と新聞に掲載した。慶応は3人の選手がインフルエンザで倒れるというアクシデントがあったが、試合を申し込んだ神戸高商や神戸一中に圧勝。全関西チームにも快勝し、実力の差を見せ付けた。
 東京の大学野球の合宿は、年末年始の豊中運動場の風物詩だった。(松本泉)

【1915年】
1月 慶応大冬季合宿
12月~早稲田大冬季合宿
      ◇
【1918年】
12月~早稲田大冬季合宿
   早稲田  8―1 大阪高商
   全関西  7―2 早稲田
   早稲田 12―4 全関西
【1919年】
12月~慶応大冬季合宿
   慶応  13―1 神戸高商
【1920年】
1月 慶応   2―1 全関西
   慶応   6―3 神戸一中
12月~法政大冬季合宿
   法政   8―4 大毎野球団
   神戸高商 4―3 法政
【1921年】
12月~慶応大冬季合宿
【1922年】
1月 慶応   4―3 大毎野球団
=2017.12.14

更新日時 2017/12/14


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