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豊中運動場100年(87) 米国在住日本人チーム来日 シアトル旭、快進撃

左上が羽織はかま姿の始球式、右上と下はシアトル旭と北野中の試合の様子

 明治から大正にかけて多くの日本人が移民として米国に渡った。決して楽とはいえない生活の中で、日本人移民たちに急速に広まっていったのが野球だった。
 豊中運動場で野球が大きな人気を集めていたころ、米西海岸では日本人移民によるクラブチームが数多く誕生していた。米国野球に詳しい作家の佐山和夫さんは「最初は趣味で始めたのですが、そのうち日本人としてのアイデンティティーを証明するものとして社会性を持つようになりました」と言い、「1935年には人種の壁を取り払い誰もが参加できる『裏ワールド・シリーズ』が開かれ、日本人チームも参加しています。米国の日本人チームのレベルは極めて高いものでした」と語る。
 米国在住の日本人チームの1つである「シアトル旭倶楽部」が、大阪毎日新聞の後援で豊中運動場にやって来たのは1918(大正7)年9月だった。選手たちは見た目は日本人だが、ほとんどが米国生まれ米国育ちで日本に来るのは初めて。本場仕込みの野球技術を発揮し、当時、日本で最強と言われた大学チームを次々と破った。
9月2日に来日したシアトル旭は、東京で早稲田や慶応と戦い、横浜、静岡、名古屋、京都と試合を重ねて、25日に大阪入りした。京都では同志社と京都二中に零封勝ちを収めており、関西でもその勢いは衰えを知らなかった。
 25日、大阪に到着して早々のシアトル旭は、午後3時半から北野中と対戦した。
 試合に先立つ始球式では、大阪毎日新聞社の本山彦一社長が羽織はかま姿でマウンドに登場する。シアトル旭の選手たちは「これがサムライの始球式だ」と拍手喝采で大喜びした。
 シアトル旭は1回表、高吉、中村両選手の連打で2点を先制、2回表にも新井選手の3塁打などで3点を奪いリードを広げた。一方北野中は、3回裏に杉原選手の適時打で1点、5回裏に桐原選手の適時打で2点を挙げて追い上げた。
 しかし、シアトル旭94回~7回に得点を重ね追撃を振り切る。北野中は8回裏に末永選手の2塁打で2点、九回裏にも敵失で1点と最後まであきらめない攻撃を仕掛けたが及ばず、10―6でシアトル旭が勝利を飾った。
 両チームともに9安打、8三振で打撃では互角だったが、シアトル旭が8盗塁を記録したのに対し、北野中の盗塁は0。高い機動力で好機を着実に得点につなげたシアトル旭の試合運びが一枚上だった。
 翌26日は、関西でトップ級の実力を持つ大阪高等商業との対戦になった。
 序盤はシアトル旭の高吉投手、大阪高商の西川投手の投げ合いで互いに譲らず。四回表、シアトル旭が均衡を破る。相手守備がバント処理を誤る間に1点を奪ったのに続き、中村、久宗両選手の適時打で一挙に3点を挙げた。
 対して大阪高商は5回裏、1死2、3塁から相手守備の乱れを突いて3点を返したものの、追撃及ばす。5―3でシアトル旭が逃げ切った。両チームともに5安打で差がなかったが、好機を得点につなげる試合勘はシアトル旭が勝っていた。
 敗れた大阪高商の主将は「喜びの旗はついに悲しき記念旗となった」とシアトル旭から贈られたペナントの上に涙を落とし、好投した西川投手の肩をたたいて号泣する。
 シアトル旭の快進撃を止めるチームは現れるのだろうか。(松本泉)
    ◇
 チーム名については「シアトル旭」「シアトル朝日」「シアトルアサヒ」などの表記がありますが、試合を後援した大阪毎日新聞の当時の紙面表記に従います。

【9月25日】
シアトル旭
  230112100=10
  001020021=6
北野中

【9月26日】
シアトル旭
  000400100=5
  000030000=3
大阪高商

シアトル旭倶楽部 本山彦一

更新日時 2017/05/16


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