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豊中運動場100年(80)  高校ラグビーが誕生/サッカー試合と交互に開催

全国高校ラグビー第80回大会を記念して阪急豊中駅前に建てられた記念碑。高校ラグビー発祥の地であることを記している

 「高校ラグビー発祥の地」
 「高校サッカー発祥の地」
豊中運動場が語られるとき、どうしても高校野球が始まったグラウンドとのイメージが強い。しかし、1918(大正7)年1月に豊中運動場で「日本フートボール優勝大会」=現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会=(大阪毎日新聞社主催)が始まっていなければ、日本のラグビーやサッカーの普及は何十年も遅れていただろう。
高校野球と並んで豊中運動場に刻まれる貴重な歴史に違いない。
野球と比べると、ラグビーもサッカーも認知度はまだまだ低かった。ラグビーが日本に伝わったのは1900年ごろ。慶応大学で外国人教授から指導を受けたのが始まりといわれている。その後、三高や同志社に広がり関西で人気を集めるようになった。一方、サッカーは明治末に東京高等師範が正式競技として取り入れられたことをきっかけに全国に広がっていった。東京高師でサッカーを経験した教師が各地の師範学校でコーチを務めたことから、師範学校で盛んになった。当時、慶応大は「ラグビーの本家」、東京高師は「サッカーの開祖」と呼ばれた。
 大会名からもわかるように、当時はラグビーもサッカーも共にフットボールと呼ばれ、ラグビーはラグビー式フットボール(ラ式蹴球)、サッカーはアソシエーション式フットボール(ア式蹴球)と区別した。ラグビー、サッカーという通称名が使われるのは少し先のことになる。
 当初は、中等学校のラグビーチームを対象にした大会を想定していた。しかし全国大会に出場できるような活動をしている中学校は数えるほど。大学や高等学校などの上級学校の出場を認めることになる。それでも出場校数が少なく、サッカーの全国大会も一緒に行うことにしたらしい。同じグラウンドでラグビーとサッカーの試合を交互に行うという今では少し考えられない大会になった。
 ラグビーに参加を決めたのは三高、全同志社、全慶応、京都一商の4校。全同志社と全慶応は大学生選手が中心だったので、純粋な中学チームは京都一商だけだった。
 当時全国の中学で最強といわれていた京都一中は、当然出場すると思われていた。ところが同校には「定期試験の平均70点以下の者は運動部活動禁止」という厳しい規則があったうえに、この年から高等学校入試が7月から3月に変更となったことでラグビー部は急きょ休部になり参加できなくなってしまった。
 当然、京都一商は不安だった。京都一中が参加しなければ、中学生のみのチームは自分たちだけになる。大会主催者から「大学相手に教えを請うつもりで立ち向かうことに意義を見出してほしい」と勧められて、ようやく出場を決めたという。
 ラ式蹴球の試合は、初日の1月12日第3試合に三高―全同志社、翌13日第1試合に京都一商―全慶応が行われ、同日第5試合の決勝戦で初代優勝校を決することとなった。
 豊中運動場にはみぞれ混じりの寒風が吹きつけていた。(松本泉)=2017.01.11

日本フートボール優勝大会 東京高等師範 ラグビー式フットボール アソシエーション式フットボール

更新日時 2017/01/11


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