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豊中運動場100年(79) 「日本フートボール大会」開催/全国中学野球に対抗

大阪毎日新聞の一面に掲載された「第1回日本フートボール優勝大会」開催の社告

 1917(大正6)年12月22日の大阪毎日新聞朝刊1面にひときわ目立つ社告が掲載された。
 現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会につながる「日本フートボール優勝大会」(大阪毎日新聞社主催)を、翌18年1月に豊中運動場で開くと伝えた。
少し長くなるが記事を引用してみよう。当時の興奮が伝わってくるようだ。
――野球を迎えてその技の妙を採りこれを体育の上に善用せるわが学生がフートボールに無関心なるべきはずなし。果然フートボールの技は今やようやく我が運動界にその頭をもたらさんとしつつあり。然れどもフートボールをポピュラライズしかつこれに対する感興を高調せしめんがためにはなお一段の努力を要す。本社がここに日本フートボール優勝大会を主催せんとするすなわちこれ要せられたる努力の一端たらんとす。
当時、ラグビーは「ラグビー式フットボール(ラ式蹴球)、サッカーは「アソシエーション式フットボール(ア式蹴球)」と呼ばれていた。
 アソシエーション式は、イングランドのフットボールクラブの代表者が集まり、共通のルールを制定して協会(アソシエーション)を設立したことに由来する。協会ルールに従って競技するので協会式(アソシエーション式)フットボールとなった。サッカーはそれを短く縮めた愛称で、使われ始めたのはしばらく後のことだ。早稲田大、東京大、一橋大のサッカー部はその名残で、今でも「ア式蹴球部」が正式名になっている。
フットボール大会の開催を提案したのは、慶応大ラグビー部の元主将・杉本貞一だった。杉本は当時大阪市西区で建築用具店を経営していた。大学を卒業してもラグビーに対する情熱は衰えず「ラグビー普及のために全国大会を開きたい」と大阪毎日新聞運動課長だった西尾守一に話を持ち掛けた。
西尾には杉本とは違ったラグビーへの強い思いがあった。
西尾は4年前の1913年、豊中運動場で開かれた日本オリンピック第1回大会を計画、運営した。陸上競技が中心だった大会で、当時はほとんど知られていなかったラグビーの「同志社―京都帝大・三高」戦を目玉イベントにしようと考えた。ところが当日になってチーム編成についてもめたうえ激しい雨に見舞われたため、試合は中止になり、公開練習を披露するにとどまったという苦い思い出があった。
西尾は何とか実現したいと社会部長の奥村信太郎に相談する。奥村は「金の心配はしなくていい。やってみろ」と了承。豊中運動場を会場とすることについても箕面有馬電気軌道とすぐに話がついた。
大阪朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会が、阪神電車沿線の鳴尾運動場へと会場を移したことも影響したことだろう。大阪毎日新聞と大阪朝日新聞、箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)と阪神電鉄との対抗意識は、現在の想像をはるかに超えるほど激烈だった。「野球の敵はフットボールで討ってやる」といった感じだろうか。
日本初のフットボールの全国大会となる日本フートボール優勝大会は、年明けの1月12日に豊中運動場で開幕する。(松本泉)2016.12.13

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更新日時 2016/12/13


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