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豊中運動場100年(76) カタロンには勝たれん/「グリコのランナー」モデル説 

圧倒的な強さで人気が急上昇したカタロン選手(左)

 豊中運動場初の国際大会となった大阪毎日新聞社主催の「日本・フィリピンオリンピック大会(日比大会)」は、真夏のような日差しが照りつける1917(大正6)年5月20日に開かれた。母国のような暑さのおかげなのかフィリピン選手は記録を伸ばし、日本選手を圧倒する好成績を次々と打ち出した。
この大会はすばらしい記録を生み出したとともに、有名なキャラクター誕生のきっかけになった可能性がある。
道頓堀の巨大な電飾看板ですっかりおなじみの「グリコのランナー」は、この日比大会に出場したフィリピンのカタロン選手がモデルという説がある。
カタロン選手は短距離選手。220ヤード走では真殿三三五選手と壮絶な競り合いを演じて優勝した。短距離では圧倒的な強さを誇り、そのさわやかな笑顔から日本人の間に一気に人気が広まった。「カタロンには勝たれん」が流行語になるほどだった。
江崎グリコは日比大会の5年後の1922年に、栄養菓子「グリコ」の販売を開始。その箱には両手を突き上げてゴールする陸上選手がキャラクターとして描かれた。江崎グリコを創業した江崎利一氏は、豊中運動場の日比大会でカタロン選手に声援を送ったのだろうか。豊中運動場とグリコのランナーはつながっているのかもしれない。
そのカタロン選手は豊中運動場での熱戦についてこのように話している。
「全くグラウンドのおかげです。豊中のグラウンドは実際にフィリピン以上です。これはお世辞ではない。非常に心地良く走れました。記録も東京(10日前に東京で開かれた極東選手権競技大会)以上であったと思います」
加えて驚いたのは女性の観客だったようで、「観覧者がこんなに多いのも勇気をつけました。ことに女性が多いのに驚きました。東京では女性は数えるほどでしたから、日本の女性はこんな所に出かけてこないと思っていました。豊中に来て初めて多くの女性を見て予想外でした」と語っている。
 競技種目中、最も盛り上がったのが880ヤード走だった。フィリピン選手が全員棄権したので日本選手の争いとなった。多久儀四郎選手(愛知一中教諭)と山之内晋作選手(日本歯科医学校)が最後まで激しい競り合いを繰り広げ、わずか0・2秒差で多久選手が優勝を飾った。極東大会での自己優勝記録を1秒以上も上回った。
880ヤード走以外に1マイル走でも優勝した多久選手は「理想的なグラウンドであるし、体の調子もすごく良かった」と喜んだ。
440ヤード走では極東大会の自己優勝記録を2秒近く更新して優勝を決めた山之内選手は「東京の記録は念頭に置かず一生懸命走った。何分この暑さだからフィリピン選手には都合良かっただろうが、私たちは非常に不利だった」と振り返った。
後に女子の五輪選手育成に尽力する大阪医科大学の木下東作教授は、大会をこう述懐した。
「両国選手がお互いに知り合いになって、皆がうれしそうに出場していたのは、東京の極東大会では見られなかった非常にすばらしい光景だった」(松本泉)
※1ヤード=0・9メートル、1マイル=1・6キロ(つづく)
=2016.11.01

日本・フィリピンオリンピック大会 カタロン選手 江崎グリコ

更新日時 2016/11/01


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