豊中運動場100年(69) 中等学校野球大会は鳴尾へ/観客収容数、輸送力がネックに
豊中運動場はもともと多数の観客を想定して建設されたグラウンドではなかった。開場半年後に土盛りで大規模な観覧席をつくったが、その敷地面積からすれば5~6千人収容が限界だった。
1916(大正5)年8月に行われた全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)第2回大会は、折からの中等学校野球人気もあって5日間の入場者が数万人を記録した。観覧席に入れない観客はグラウンドにあふれだし、試合に支障が出始めた。箕面有馬電気軌道の輸送力も限界を超えており、試合が終わると豊中停留場とグラウンドを結ぶ直線道路は人であふれ、何時間も待たなければ電車に乗れない人が出たという。「梅田まで(約13キロを)歩いた方が早かった」とは笑い話にもならなかった。
観客の収容力でも輸送力でも、現状のままで全国中等学校野球大会を続けるのは無理だった。
大会を主催する大阪朝日新聞社は箕面有馬電気軌道に対し、豊中運動場の設備拡充と電車の輸送力増強を依頼する。既に周辺で多数の住宅が完成していた豊中運動場の拡張は簡単なことではなかったし、輸送力の増強には膨大な資金が必要だった。
当時、箕面有馬電気軌道は大阪―神戸間の新路線計画を進めていた。郊外路線だけでは事業経営に限界があり、都市間路線の新設は悲願でもあった。中等学校野球のために多額の資金をつぎ込めない事情を抱えていた。
実質的な経営者だった小林一三は、断腸の思いで朝日新聞社の申し出を断り、次のように側近にもらしたといわれている。
「将来すばらしい事業になるとわかっていても、金がなければ持っていかれてしまう。事業はすべて金と人からなる。うちには良き人はいるが、金がない」
ここで新運動場の建設を申し出たのが、箕面有馬電気軌道のライバル・阪神電鉄だった。全国中等学校野球大会の人気と集客を見ていた阪神電鉄は、朝日新聞社に対して兵庫県鳴尾村の鳴尾競馬場内に大規模なグラウンド建設の計画を持ちかけた。
目を見張るような計画だった。
競馬のトラックの内側に1周800メートルの陸上競技用トラックをつくる。その内側に野球場を2つ設けるというもので、「野球が同時に2試合できる」という触れ込みだった。総面積は14万5000平方メートルにのぼり、現在の阪神甲子園球場の4倍近い広さがあった。
観客席については、高さ8段、横幅3・6メートルの移動式木製スタンドを多数つくり、試合時に並べて使用した。これで豊中運動場の数倍の収容能力を確保した。また、阪神電鉄の輸送力は箕面有馬電気軌道の6~7倍あり、観客輸送の問題もクリアできた。
こうして完成した「鳴尾運動場」は、1916年10月の第1回東西対抗陸上競技大会を皮切りに、全国レベルの大会が次々に開かれるようになった。そして翌17年からは全国中等学校優勝野球大会の会場となる。それまで豊中運動場で開催されていた野球や陸上競技の大規模な大会は、相次いで鳴尾運動場で開かれるようになっていった。
歴史に「もしも」は禁句である。しかし、「もしも」小林一三が豊中運動場の大改修と電車の輸送力増強に踏み切っていたら、高校野球は現在でも豊中で開催されていたかもしれない。また甲子園球場は存在していなかったかもしれない。「夏の豊中大会」が高校野球の代名詞になっていたに違いない。(松本泉)
=2016.07.20
更新日時 2016/07/20