このエントリーをはてなブックマークに追加

豊中運動場100年(64) 大学兼任選手出場/中等学校野球、大会初の外国人も

第2回大会の会場平面図。本塁後方に「特別席」を設けたほか、両校の「応援席」や「音楽隊席」、「新聞記者席」などを設置していたことがわかる

豊中運動場で1916(大正5)年8月16日に開幕した第2回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)は、第2日の翌17日も夏の強い日差しが照りつけた。
 第1試合で広島商が大差で中学明善を破ったのに続き、第2試合は四国代表の香川商と兵庫代表の関西学院が対戦した。
 香川商は前年の四国大会決勝で審判の判定をめぐる混乱から試合を放棄して敗退。一方の関西学院は前年の兵庫大会決勝で2点リードをひっくり返されるサヨナラ負けで敗れていた。両校とも苦い思いで前年の全国大会出場を逃しており、満を持しての豊中運動場だった。
 試合は1点をめぐる攻防戦になったものの、得点は全て失策絡みで不完全燃焼の展開になってしまった。香川商は1回表、2死3塁で相手の失策で先制、4回表にも相手失策で追加点を上げた。対する関西学院は4回裏、2死3塁からこれも相手の失策で1点を返した。関西学院は一気に逆転をと勢いづいたものの、6回裏と8回裏にはともに併殺打で好機を逸してしまった。
 関西学院の内海寛投手は大会屈指の快速球で香川商打線を1安打に抑え、9三振を奪う好投を見せた。しかしコントロールが今一つで四死球を7個も与え、2失点のきっかけはいずれも四死球だった。要所を抑えて好機を得点に結びつけた香川商が勝利を飾った。
 第3試合は関東代表の慶応普通部と東海代表の愛知四中が激突した。
 異色の選手に豊中運動場が沸いた。慶応の一塁手、ジョン・ダン選手は米国籍。外国人選手が登場するのは大会で初めてだった。当時は外国人の姿を街中で見かけることがほとんどない。ダン選手が打席に立つたびに超満員の観客から「ジョン頑張れ」「ダンかっとばせ」と声援が飛んだ。
 試合は中盤まで1点を争う緊迫した展開となった。慶応は二回表、1死三塁で足立信夫選。途中からマウンドに立った慶応の山口投手は5年生で20歳。普通部の選手であるとともに慶応大のレギュラー選手でもあり大学のリーグ戦にも出場していた。今では考えられない高校大学兼任選手だった。選手資格があいまいで「同じ慶応グループなんだから」という理屈で選手登録できたようだ。
 山口投手は後年、「技術的に未熟で、腕の足らないところを気力で補うといった型のチームが多く、投手をしていても打者の穴がよく分かって楽なピッチングができた。僕は当時大学の選手も兼ねていたから相手の選手がなんだか小学生のような気がして困ったものだった」と振り返っている。
 大阪毎日新聞はやや時代がかった表現でこの試合を伝えた。
 (松本泉)
▽8月17日
 【1回戦】
香川商  100100000=2
関西学院 000100000=1

慶応普通 010000221=6
愛知四中 000200000=2
=2016.05.10

全国中等学校優勝野球大会 広島商 中学明善 香川商 関西学院 愛知四中

更新日時 2016/05/10


関連地図情報

関連リンク