豊中運動場100年(62) 市岡中「黒の三本線」で登場/中等学校野球大会、救護班を設置
豊中運動場で1916(大正5)年8月に開幕した第2回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)では、初めて「救護班」が設けられた。
前年の第1回大会では広島中の捕手が試合中に負傷したもののすぐに応急手当ができず、近くの病院に担ぎ込まなければならなかった。現在から考えると信じられない状況だが、選手の教護体制の確立は急務だった。本塁の後方の本部席の隣に救護テントを設営。大会衛生顧問の三島宏造医師を班長として負傷や急病の応急手当にあたった。
この大会の後、地方大会でも救護班を設けるようになった。スポーツ大会の救護体制は豊中運動場から全国に広がっていった。
第1日の8月16日は和歌山中が勝利を飾った開幕戦と合わせて1回戦3試合が行われた。
第2試合は大阪代表の市岡中と北陸代表の長野師範が対戦した。地元の市岡中が登場するとあって、炎天下にもかかわらず豊中運動場は超満員になった。
市岡の野球部といえば「帽子に黒の三本線」。しかし、この大会前までは「帽子に二本線」だった。制帽は「大阪市内の第三中学」ということで二本線から三本線に既に替わっていたが野球帽はなぜか二本のまま。「全国大会に出るのだから制帽とそろえよう」ということで「黒の三本線」になった。長野師範との試合は「黒の三本線」のデビュー戦でもあった。
市岡中の猛打は3回表に爆発した。2死2塁から失策の間に生還して先制。続いて田中勝雄選手が適時打で1点、松本終吉選手が本塁打で2点を上げて一挙に4―0と突き放した。一方で長野師範は5回裏と6回裏に相手の失策から1点ずつを挙げて追い上げを図る。しかし市岡中は8回表、四球と死球で2死1、2塁としたあと、魚谷忠選手が中前に見事な適時打を放ち2点を奪取。市岡中が6―2で長野師範を破った。
直球がさえた市岡中の松本投手は自らも2点本塁打を放つ大活躍。後半は堅い守備陣にも助けられた。
第3試合は前年優勝の京都二中(京津代表)が登場、東北代表の一関中と対戦した。
一関中は1回裏、村井選手と金選手の適時打でいきなり2点を先取。その後6回まで両校ともゼロ点が続いた。京都二中はようやく終盤になって追い上げた。7回表に相手守備陣の乱れを突いて1点を返したあと、9回表に2安打で1死2、3塁の好機をつくり逆転を狙った。しかし井堂選手の適時打で同点としたものの後が続かなかった。
ピンチの後にチャンスあり。一関中はその裏、無死2、3塁の絶好機に阿部選手が見事な適時打を放ち劇的なサヨナラ勝ちを収めた。初出場校が前年の覇者を破る番狂わせに豊中運動場の大歓声はしばらく止むことがなかった。
2点を先行されて得点が挙げられず次第に焦りが強くなっていった京都二中。一関中の菅原投手の絶妙なカーブに惑わされて最後まで実力が出せなかった。(松本泉)
▽8月16日
【1回戦】
市岡中
004000020=6
000011000=2
長野師範
京都二中
000000101=2
200000001=3
一関中
=2016.04.07
更新日時 2016/04/07