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豊中運動場100年(51) 実業野球の実力急上昇/第10回大会は津田商店V

 1916(大正5)年から3年間は豊中運動場の黄金期だった。関西や大阪の大会はもちろんのこと全国大会や国際大会の会場になり、野球や陸上競技、サッカー、ラグビーなどの熱戦が1年中繰り広げられた。
 ところで箕面有馬電気軌道の創業者であり、豊中運動場をオープンさせた小林一三はどのくらい試合を観戦したのだろうか。
 小林一三が観戦したとの記録は残っていない。さすがに全くなしということはないだろうが、恐らく観戦のために足を運んだことはほとんどなかったと思われる。
 三井銀行員時代に早慶戦を観戦したときのことを「これほど面白いものはまたと世界にあるまい」と日記に書き記している。野球の面白さと魅力については十分に認識していた。しかし「野球が大好きだから」「スポーツに興味があるから」ということで豊中運動場をつくったわけではなさそうだ。
 豊中住宅地の販売の1年以上も前に、住宅地のど真ん中に建設した点に注目したい。当初は住宅地の付属施設としてつくられたように見える。ただ、たとえ住宅地の付属施設としてでも日本1のグラウンドを造ったのだから、小林一三の見識は極めて高かった。開場してみると、一流のアスリートが集い、レベルの高い大会が開かれ、観客が詰め掛けた。豊中運動場の盛況を見た小林一三は「ここが日本のスポーツ文化の発信地となる」と確信したことだろう。
 1916年3月、美津濃商店主催の第10回大阪実業野球大会が開かれた。豊中運動場ではすっかりおなじみの大会になった。「回を重ねるに従い各野球団の技術著しく上達しほとんど四、五年前とは別人の観ありたり」と当時の新聞記事が評するように、この大会をバネに社会人野球のレベルは飛躍的にアップしている。
 ただ、注目が集まり実力が伯仲するに伴って、勝ち負けにこだわる選手やチームが増えてきた。強豪対決となった21日の百三十銀行―津田商店は、5回が終わり10―5で百三十銀行リードの時点で日没となる。事前の取り決めが曖昧だったこともあり、コールドゲームかノーゲームかで乱闘寸前の騒ぎになってしまった。結局5日後に再試合することで決着するが、後味の良くない大会になってしまった。(松本泉)2015.09.30

【第10回大阪実業野球大会】
▽3月21日
堂島倶楽部4―2弥谷商店
大阪商船9―6浪速銀行
大崎商店8―7汽車製造
近江銀行14―7阪神電車
▽3月26日
津田商店9―8百三十銀行
近江銀行15―12大阪商船
津田商店15―8汽車製造
▽4月3日
津田商店15―9近江銀行
(津田商店が優勝)

小林一三 大阪実業野球大会 百三十銀行 津田商店 堂島倶楽部 弥谷商店 大阪商船 浪速銀行 大崎商店 汽車製造 近江銀行 阪神電車

更新日時 2015/09/30


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