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豊中運動場100年(30) 中等学校全国大会開催へ 高校野球ここに始まる 

静かな住宅地の一角にある高校野球メモリアルパーク。豊中運動場の正門は道路をはさんで南側にあった=豊中市玉井町で

 「高校野球発祥の地」
 豊中運動場を語るときには真っ先に登場するフレーズである。
 1915(大正4)年8月。現在の全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)となる全国中等学校優勝野球大会の記念すべき第1回大会が豊中運動場で開かれた。
 今ではすっかり住宅街となってしまった豊中市玉井町の十字路の一角に「高校野球メモリアルパーク」がある。道路をはさんで豊中運動場の正門跡と向かい合う形で設けられたメモリアルパークは、豊中運動場の象徴である赤レンガ壁が基調。当時の熱気を伝える貴重な空間となっている。
 当時、中等学校野球は地域大会が盛んに行われていた。京阪神では1901年から三高主催で開催していた近畿中等学校連合野球大会と、豊中運動場を会場にした美津濃商店主催の関西学生連合野球大会。この他、東海五県連合野球大会、東北地区中等学校連合野球大会、北陸関西中等学校野球連合大会などが人気を集めていた。しかし、日本1を決める全国大会はなかった。東京―大阪間が鉄道で11時間もかかった時代。全国からチームを集めて大会をするには資金面でも運営面でも課題が多かった。
 中等学校野球の全国大会がどのような経緯で豊中運動場で開かれることになったのか。発案を巡ってはいろいろな説がある。
 (その1)大阪朝日新聞の運動担当記者が発案。村山龍平社長が即座に認可して豊中運動場での開催が決定。管理運営する箕面有馬電気軌道に持ち込んで実現した。
 (その2)箕面有馬電気軌道の事業部員が豊中運動場で京阪神の中等学校野球大会を立案したところ、小林一三社長が「どうせなら大きくやれ」と指令。大阪朝日新聞社に全国大会の計画を持ち込んで実現した。
 (その3)当時、関西で圧倒的な強さを誇っていた京都二中。同中出身の三高野球部員が「全国大会があれば京都二中が優勝してその実力を全国に知ってもらえる」と知り合いの大阪朝日新聞記者に全国大会計画を持ち込んで実現した。
 (その4)豊中運動場で開催していた関西学生連合野球大会を主催する美津濃商店が、大会を全国レベルにできないかと大阪朝日新聞社と箕面有馬電気軌道に相談。同大会を春秋開催に変更し8月の開催権を譲る形で実現した。
 7月1日。
 大阪朝日新聞一面に「全国優勝野球大会」開催の社告が掲載された。(松本泉)2014.0830

全国中等学校優勝野球大会 近畿中等学校連合野球大会 関西学生連合野球大会 東海五県連合野球大会 北陸関西中等学校野球連合大会 東北地区中等学校連合野球大会

更新日時 2014/09/02


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