豊中運動場100年(27)第2回日本オリンピック 豊中―宝塚、健脚競う 初日の注目はクロカン
2年ぶりの開催となる日本オリンピックの第2回大会が1915(大正4)年5月1日、2日間の予定で開幕した。
豊中停留場前では中山太陽堂が贈った「クラブ洗粉」の歓迎アーチが選手と観客を迎え、運動場の正門前には三輪商店贈呈の「トラ印靴クリーム」の大アーチが設けられた。3分間隔の特別電車が到着するたびに豊中運動場への連絡道は人であふれた。
1日の競技種目は短・中距離走の予選と投てき。お目当ては何といってもクロスカントリーだった。豊中運動場スタートで宝塚新温泉フィニッシュの約20キロのコース。日本オリンピックでは初めての種目であり、場外にコースを設けた種目としても初めて。注目が集まった。
それにしても長距離種目がマラソンではなく、なぜクロスカントリーだったのか。
マラソンは第1回アテネ五輪からの競技種目だったが、42・195キロに確定するのは1924年のパリ五輪から。それまでは大会によって距離がバラバラだった。一方、クロスカントリーは第5回ストックホルム五輪から3大会にわたって陸上の正式種目だった。大正時代の陸上長距離種目としては、マラソンとクロスカントリーが同等にみられていた。
日本初のマラソン大会は1909年に神戸―大阪間31キロで行われた「マラソン大競走」。その後も「マラソン」と称した大会はいくつか開催されたが、陸上長距離種目としての本格的な大会として定着していない。マラソンが競技種目としてまだ未熟だった当時、長距離走といえば「山野を駆け巡る」イメージが強いクロスカントリーの方が親しみがあっただろう。豊中運動場の周辺もクロスカントリーが似合っていたに違いない。
ちなみにクロスカントリーの出場者に対して、こんな注意が与えられた。
(1)コース取りのために田んぼを踏み荒らすな
(2)走路沿いに一見しても分からない野井戸が多数あるので注意せよ
(3)線路と交差する地点は自分で十分注意せよ
(4)裸足は絶対に禁止
最後の注意書きに注目したい。当時、陸上競技には裸足で出場する選手が少なからずいた。履いてきた下駄を勢いよく脱ぎ捨ててスタートラインにつく猛者もいたようだ。長距離走用としてゴム底の足袋が売り出されるのはまだ少し先のこと。わらじ履きでクロスカントリーに挑む選手が多かった。
大観衆の豊中運動場でクロスカントリーのスタート時間が迫っていた。(松本泉)2014.07.08
更新日時 2014/07/08