編集長のズボラ料理(80) アサリ・パセリ
パセリとは何か。そんな哲学的テーマに、頭を悩ませることがある。
そもそもパセリは食べるものなのか、それとも単なる料理の飾り物なのか。会社勤めをしていて、昼ご飯にランチを頼むと、パセリがついている。ワンプレートの洋食系のセットには、ついている割合が高いのに、皿の上で食べ物としての地位は低いという矛盾を、常に身に背負っている。
メーンやサブの食べ物には、遠く及ばないはやむを得ないとしても、キャベツの千切りにも、大きく水をあけられている。悲しくないのだろうか、と心配する。
ところが、サラリーマンが食べ終わると、やけに存在感を示す。皿には、パセリだけが残っているからだ。親指ほどの量と遠慮がちだが、白い皿の場合、緑のパセリはことのほか目立つ。この時こそ、パセリの一人天下である。しかし、食後の主役という、大いなる矛盾を抱えたまま、パセリは捨てられていくのである。
僕はパセリを食べる。だから、第1の哲学的テーマはクリアしている。ところが、第2の難関が待ち構えている。パセリはおいしいのか、という命題である。
確かに食べきる。それは量が少ないからではないか? ポタージュスープの場合、パラパラとだけふってあるからいいのであって、パセリがドバっと入っていたらどうするのか?
残すともったいないからではないか? 毎日新聞は「もったいない」キャンペーンをし、僕も「もったいないTシャツ」を持っているのに、残したら社内規定に違反するのではないか? 料金に含まれているので、食べないと損だからではないか? 次から次へと疑問がわいてくる。
何度か、パセリをプランターで栽培したことがある。スーパーで買ってきても、全部を使い切ったことなどない。それなら、家で育てて、必要量だけ摘み取ればいいではないか。そう考えたからである。
料理に使ったが、その量はわずかで、パセリの成長によって生み出される供給量にはとても及ばない。そうなると、葉先がたけてきて、料理に向かなくなる。栽培は毎回も挫折した。
今回の料理は、パセリへの罪の償いのようなものである。用意するのは、アサリのつくだ煮、パセリのみじん切りたくさん、竹輪の小口切り。作った時に、もらいもののウドがあったので、それも使った。ウドは皮をむき、酢水であくを取ったあと、ゆでて、さらに小口切りにする。これらの材料を和えるだけ。パセリへの償いの気持ちもこめて、「アサリ・パセリ」と名づけた。語呂もいいし。(梶川伸)
更新日時 2014/03/22