西村真琴の足跡・下 中国の戦争孤児を日本へ
西村真琴は大阪毎日新聞(現毎日新聞)の学芸部記者の後、大阪毎日新聞社会事業団(現毎日新聞大阪社会事業団)の幹事に就任し、やがて常任理事となった。
事業団は日中戦争の最中の1938年、四天王寺などと合同で隣邦孤児愛護会を組織した。その中心にいたのは、西村だった。設立趣意書は日中戦争について、「現地の戦禍が、幾多民衆の不幸を現じつつある中にも、最も哀れなるは、父母を喪(うし)ないかつ寄辺(よるべ)なき孤児が飢に泣きあるいは病に悩む姿である。我等はこの惨状を目撃しては到底捨て置く事ができない」と書いている。
西村ら愛護会は39年1月に中国に渡り、敵国である中国人の戦争孤児68人を、日本に呼び寄せた。子どもたちは、四天王寺が運営する養護施設で養育された。太平洋戦争が始まると、状況の悪化が予想されたため、愛護会は順次、子どもを中国に帰国させた。東京第一高校に進学した1人をのぞき、67人が帰国した45年5月、愛護会は活動に終止符を打った。
戦後、西村は豊中市議会議員になり、議長も務めた。48年1月の市議会の議事録に、西村の功績に言及した市議の発言が残っている。市議は中国からの復員軍人から聞いた話を披露した。軍人は引き揚げ船に乗る際、中国の青年に親切にしてもらったので、礼を述べた。すると青年は言ったそうだ。
「このお礼は、私が受けるべきではない。日本に西村真琴という先生がおられる。その方にお礼を言ってください。私が今日あるのは、西村先生のおかげです」
青年は帰国した戦争孤児の1人だった。市議は「軍には相当の反対もあったそうだ。その反対を押し切って、未来の日本と中国のためにと、同胞愛、人類愛に徹した」と、西村をたたえた。(梶川伸)
◆「西村真琴と魯迅」展・講演会◆
「西村真琴と魯迅(ろじん)」展が2月23日から25日まで、豊中市曽根東町3-7-3、市立中央公民館で開かれる。中国・上海魯迅記念館、大阪府日本中国友好協会、豊中市日本中国友好協会が主催し、毎日新聞などが後援する。
西村と中国の文豪・魯迅の関係は「戦火の下の友情」として語り継がれている。展覧会は魯迅が西村に贈った漢詩の一節「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」(意訳=荒波を渡っていけば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える)を題材にし、資料100点あまりを、写真で紹介する。
上海事変(1932年)が起きた後、西村は医療団を率いて上海に行き、傷ついたハトを日本に連れ帰った。子どもが生まれたら日中友好の象徴として魯迅に贈ろうと考えた。残念ながらハトは死んだが、いきさつ書いた手紙を魯迅に送り、それに感激して魯迅は「度盡劫波兄弟在……」の詩を作った。
23日午後2時から、豊中市本町3-1-16、ホテルアイボリー3階オーキットホールで講演会と討論会がある(当初の会場から変更)。上海魯迅記念館の王錫栄・館長の講演の後、王館長、松尾宏さん(西村真琴の孫)、周寧さん(魯迅の孫)らがパネル討議をする。無料だが、討論会の聴講は豊中市日中友好協会(06-4977-3392)に申し込みが必要。
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」60号(2014年2月13日)
更新日時 2014/01/22