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豊中運動場100年⑭ 走り幅跳びで競技開始 日本オリンピック初日

日本オリンピック第1日に10人が参加した鉄弾投げ

 1913年10月に豊中運動場で開催された第1回日本オリンピック大会は、3年後のベルリン五輪(第一次世界大戦のため開催中止)を強く意識した大会だった。
 日本人が初めて出場した1912年のストックホルム五輪では、東京・羽田運動場で五輪予選会を開いて陸上種目に2選手を送った。しかし、予選会の開催が急に決まるなど準備不足だったことは明らか。五輪での好成績を目指すためには、優秀な選手を発掘しじっくりと育てる場が必要だった。
 出場選手は公募。第一級の陸上選手には個別に出場を要請した。参加選手は約500人に上る。全国から選手が集まったが、当時の交通アクセスを考えれば近畿圏の選手が中心になるのは仕方なかった。
 五輪を強く意識するだけあって、競技種目は実際の五輪と同じにした。種目だけではない。「五輪精神」も持ち込んだ。ストックホルム五輪では、陸上競技で優勝した選手がプロ野球選手だったことが判明し、「五輪のアマチュアリズムに反する」として金メダルをはく奪された。「賞金稼ぎで大会に出場するプロ選手と認定されるとベルリン五輪出場に差し支える」として日本オリンピックでは賞金を廃止。金杯や銀杯、時計などの賞品を授与することとした。
 大会初日の10月17日。前日からの雨が残っていた。午前10時ごろにようやく上がったものの、トラックは時間をかけた整備が必要な状態。午前11時の開始を2時間繰り下げるとともに、トラック競技よりも先にフィールド競技を行うようプログラムを変更した。
 正午。花火を合図に第4師団軍楽隊が勇ましい行進曲や荘厳な歌曲を演奏。箕面有馬電気軌道が2分間隔で観客を運んだこともあって、観客席はもちろん豊中運動場の周囲まで観客で埋まる。豊中運動場は今までにない熱気に包まれた。
 最初の競技は走り幅跳び。20人の選手が出場し、5メートル06を跳んだ石村利三郎選手(市岡中)が大会第1号の優勝者となった。
 続いて10選手が参加した鉄弾投げ(砲丸投げ)。五輪では16ポンド(7.25キロ)が標準とされていたが、「日本人には重すぎて無理ではないか」と言われていた。しかし、山澤鉄五郎選手(京都帝大)が8.63メートルを記録し、断トツで優勝を決めて大歓声を浴びた。
 ようやく整備ができたトラックでは100メートル走と400メートル走の予選が始まった。100メートル走は50人が5組に分かれて競い合い、400メートル走では60人が4組に分かれて予選を戦った。400メートル走予選には大阪、京都、和歌山、奈良などから出場した学生選手が多数出場。運動場全体を揺るがすような大歓声が響き渡った。(松本泉)
=2016.12.04

第1回日本オリンピック大会 羽田運動場 第4師団軍楽隊 石村利三郎 山澤鉄五郎 鉄弾投げ

更新日時 2013/12/04


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