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豊中運動場100年⑬大毎主催で「日本オリムピック」  国内初の陸上選手権

日本人選手が初めて出場した1912年のストックホルム五輪は国内にオリンピックブームを起こした(写真は開会式で入場行進する日本選手団)

 豊中運動場が「オリムピック」会場になったことがある。
 大正の初め、日本はちょっとしたオリンピックブームだった。豊中運動場が開場する1913(大正2)年の前年に開かれた第5回ストックホルム五輪。初めて日本人選手が出場したのがきっかけだった。それまで「海の向こうのスポーツ大会」と思っていた日本人にとって急に身近なものになる。新聞や雑誌には華やかな競技写真があふれた。
 豊中運動場で開かれたオリンピックは、大阪毎日新聞社が主催する「日本オリムピック大会」。豊中運動場の開場記念行事として10月17日から3日間の予定で準備が進んだ。
 現在の日本陸上競技選手権大会につながる第1回全国陸上競技会が陸軍戸山学校運動場で開かれるのは翌11月。豊中運動場で開かれた日本オリンピックは、日本で初めて開催される陸上選手権大会となった。当時、庶民にとってスポーツ大会といえば学校単位の運動会。スポーツとしての陸上競技という意識はまだまだ低く運動会の種目程度にしか考えられていなかっただけに、日本オリンピック開催は画期的な出来事だった。
 1913年9月28日付の大阪毎日新聞1面には目をむくような大活字が躍った。
 「日本オリムピック大会/空前の一大計画/運動界の新紀元」
 同時に競技種目も発表された。100メートル走▽200メートル走▽400メートル走▽800メートル走▽1500メートル走▽5000メートル走▽100メートル障害▽200メートル障害▽走り高跳び▽走り幅跳び▽竿(さお)跳び(棒高跳び)▽槌(つち)投げ(ハンマー投げ)▽鉄弾投げ(砲丸投げ)▽投球の14種目。投球以外はすべてオリンピック種目に準じており、世界を強く意識した大会にしようとの意気込みが伝わってくる。
 それまで主に野球の大会に使われていた豊中運動場は、陸上競技のために10日間かけて改修工事をする。ストックホルム五輪に出場した三嶋弥彦氏のほか3人の専門家のアドバイスを得て、それまでの野球仕様のグラウンドから陸上競技のための硬いグラウンドになった。「従来の運動会とは全く異なる破天荒の設備計画を実施した」と当時の新聞が伝えている。
 また、それまでは簡単な木造の仮設で数百人程度しか収容できなかった観覧席も大幅に造り替えた。日本オリンピック大会向けに数千本の枕木を搬入。競技スペースの周辺に積み重ねて観覧席の代用とし収容人数を大幅に増やした。その前列には大量のむしろを敷いて従来の倍以上の観客が応援できるようにした。
 豊中運動場は開場以来、最大のスポーツ大会を迎えることになった。(松本泉)
=2013.11.25

日本オリムピック 第1回全国陸上競技会 陸軍戸山学校 三嶋弥彦

更新日時 2013/11/25


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