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豊中運動場100年④ 日米大学野球でオープン

完成したばかりの豊中運動場で練習する選手たち=1913年6月

 豊中運動場の開場日は、公式には1913(大正2)年5月1日となっている。
 しかし、この日にオープン記念式典や、記念イベントが行われた形跡はない。それどころか、この日の大阪は雷鳴が響き渡る暴風雨に襲われ、家屋の浸水が続出するとんでもない天気だった。
 6月に入ってもまだ部分的な工事が続いていたことを考えると、5月1日は書類上の完成日ということだったのだろう。
 事実上の開場は6月21日。大阪毎日新聞社主催の「日米野球戦、慶応義塾大学対米国スタンフォード大学」が記念すべきオープニングゲームとなった。
 現代では「単なる大学同士の試合なのか」と思う人がいるかもしれない。しかし大正時代初めの野球ファンにとっては胸躍るビッグゲームだった。当時の野球界の状況について知ればすぐに納得できるだろう。
 日本にはプロチームはまだ存在せず、野球と言えば学生野球。学生野球を代表したのが一高対三高の定期戦や早慶戦で、各地に野球ファンを根付かせていったのが中等学校野球だった。東京六大学の原点となる慶応、早稲田、明治の三大学リーグが発足したのが1914(大正3)年。関西で同志社、関西学院、関西大のリーグ戦が始まったのが1923(大正12)年。豊中運動場が開場した時には、全国規模の大会どころか大学野球のリーグ戦さえなく、各校の校庭を使った定期戦や対抗戦が中心だった。
 もちろんテレビはなく無声の活動写真の時代。庶民にとって米国ははるかに遠い国で、米国の野球は憧れだった。スタンフォード大の選手団が大阪駅に到着したときには数千人が出迎え、宿舎までの沿道は紙吹雪が舞い、見物人の歓声に包まれた。歓迎会には大阪府知事、大阪市助役、米国総領事をはじめ関西在住の著名人が集まったというからその熱狂ぶりがわかる。
 選手や観客を豊中運動場まで運ぶ手段は箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄宝塚線)以外になく、受け入れ態勢は着々と進んだ。最寄り駅となる豊中停留場(現豊中駅)の建設工事が急ピッチで進められた。また、特別に売り出された梅田―豊中間往復割引切符(19銭)を使えば、復路は箕面か宝塚に行くこともできた。試合日に合わせて、宝塚新温泉ではスポーツ映画の鑑賞会、箕面動物園では剣舞や琵琶演奏会を計画しており、日米野球の観客を他の行楽施設にも誘い込もうという作戦だった。
 豊中停留場の開設は、記録では10月1日となっている。しかし、6月19日には両チームの練習に合わせて豊中停留場での乗降が始まっている。日米野球に合わせて臨時開業したようだが、10月までは豊中運動場で大きな大会があるとき以外の乗降を認めなかった。
 新聞では「岡町や蛍池の停留場からテクテク往復する間に多大の時間と労力を費やすので大概のものは一度で懲りて二度と足を向けない。こういう冷淡な方針では遠からずダイヤモンドにまで草が生い茂ってコオロギやバッタの好運動場と化してしまうだろう」と酷評された。【松本泉】
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第54号(2013年8月8日)

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更新日時 2013/05/29


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