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心にしみる一言(377) 生きている私が亡くなった人の人生を伝える

高松空襲の写真=総務省のホームページから

◇一言◇
 生きている私が亡くなった人の人生を伝える

◇本文◇
 ウクライナの戦争や、沖縄復帰50周年といった時期のせいか、日本の戦争に関する取材を思い出すようになった。高松空襲もその1つ。
 1996年に高松市に赴任した。その際、同僚から本をもらった。「高松の空襲 手記・資料編」(高松空襲を記録する会編)だった。
 高松空襲は太平洋戦争が終わりに近づいた1945年7月4日の未明だった。犠牲者は1359人にのぼる。
 4月に赴任し、7月4日の記念の日に合わせ、高松市市民文化センターの平和記念室を訪ねた。残念ながら、私以外の見学者とは出会わなかったことを覚えている。本の中で、何人もの聞き書きをしている喜田清さんに話を聞いた。喜田さんは高等小学生の時に空襲に遭った。「おやじは火を消そうとして逃げなんだ。空襲になって逃げるのは非国民と教えこまされていたようだ。私はおふくろと一緒に逃げた。家族がおやじを見捨てた」
 父親は何とか生きていた。そうとは知らず、朝になって焼け跡で父親を探している時に、おびただしい遺体を見た。「水槽に浮かんでいる人、やけどのために体が風船のように膨らんだ人、カエルを押しつぶしたような格好をした人。双子と思う3、4歳の女の子は塀にもたれて眠っているようだった」。「見捨てた」という思いと、たくさんの死は、喜田さんの心の中で尾を引いた。
 喜田さんは空襲や戦争の語り部として、「自分の意思とは違って、命を落とした人の無念さ」を語り伝えていた。「生きている私が亡くなった人の人生を伝える」と。「
 7年間の青春」として語るのも、その1つ。15歳の見習い看護婦は、両親が止めるのを振り切って病院に向かった。院長が「空襲の時は患者を避難させなさい」と話していたからだった。病院へ着く前に、少女は爆風で飛ばされた。おなかの深い所に爆弾の破片が食い込んだ。手術で一命は取り止めたものの、大腸の機能を失った。人工肛門をつけ、おなかにおむつをあてた。しかし、下痢状態の便がおむつをよごす。やがてだれも会ってはくれなくなり、22歳で亡くなった。少女の父親から聞いた話だという。(梶川伸)2022.05.27

更新日時 2022/05/27


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