豊中運動場100年(95) 日本の大学野球元年 トーナメント戦の全国大会
1919(大正8)年は日本の大学野球元年といえるかもしれない。対抗試合が中心だった大学野球で、トーナメント戦の全国大会が本格的にスタートしたのがこの年だった。豊中運動場はその先陣を切り、選手にとっては聖地となった。
今回から数回にわたって、豊中運動場が育てた大学野球の軌跡を追ってみることにしたい。なお、当時の学校制度は現代と大きく異なる。現在の大学に当たる学校(帝国大学、旧制高等学校、旧制高等専門学校、高等師範学校、専門学校令・大学令で認可された私立大学)が参加したものを大学野球とした。
当時の大学野球の状況を少し振り返ってみよう。
現在の東京六大学に当たる早稲田、慶応、明治、法政の4大学リーグ戦と、一高-三高の対抗戦、京都帝大-東京帝大の定期戦が人気を集めていた。全国大会としては、京都帝大野球部が主催する全国直轄学校野球大会があった。一高~八高の旧制高校を対象にする全国大会として1911年に始まったが、後には高等専門学校も参加するようになった。
ただ、中等学校ほどの参加校数はなく、首都圏と京阪神に集中していたことや、連携も弱かったことから、全国大会の誕生に至らなかった。
全国中等学校野球大会の会場が鳴尾運動場に移って以来、豊中運動場では目玉になる野球大会がなかった。それならと大阪毎日新聞社が阪急電鉄と協力して「4大学リーグや直轄学校大会を越える大学野球の全国大会を」と開催したのが「全国専門学校野球大会」だった。
1919年9月18日。
同志社、大阪歯専、関西学院、大阪薬専、大阪高商、大阪高工、大阪医大予科、神戸高商の8校が参加して、「第1回全国専門学校野球大会」が豊中運動場で開幕した。
参加校が京阪神の学校に限られてしまったのは残念だったが、「全国大会」と銘打ち、高等専門学校が一堂に会して開催されるのは画期的であった。
18日と19日に行われた1回戦では、実力差がくっきりと出てしまった。同志社、関西学院、神戸高商が、大量得点による一方的な試合で勝利を飾った。
そんな中で、前日からの大雨で試合開始が午後にずれ込む最悪のグラウンドコンディションだったにもかかわらず、大阪高商-大阪高工は見応えのある試合になった。
1回表に高商が3点を挙げ幸先の良いスタートを切ったが、高工は3回裏、松田選手の2点本塁打で1点差に詰め寄った。しかし高商は小刻みに加点し、結局7-3で勝ちを収めたものの、高工も逆転の機会を何回もつくる好試合となった。
ときには蛮カラ丸出しの派手な応援が飛び交う豊中運動場は、大学生選手の巧みなプレーに一喜一憂が広がっていった。(松本泉)
▽第1回全国専門学校野球大会
【1回戦】(9月18、19日)
同志社
103401130=13
000000001=1
大阪歯専
大阪薬専 0 0000=0
関西学院 01610×=17
(雨天5回コールド)
大阪高商
300011200=7
002010000=3
大阪高工
神戸高商
025741=19
000000=0
大阪医大予科
(6回コールド)
=2017.10.04
更新日時 2017/10/04