豊中運動場100年(78) 大洪水でスポーツ人気に陰り/学生フットボールへ脚光
1917(大正6)年5月20日に豊中運動場で初の国際大会として開かれた「日本・フィリピンオリンピック大会」(日比大会、大阪毎日新聞社主催)は、直前に東京で開催された極東選手権競技大会の記録を上回る好成績が続出した。フィリピンのアスリートたちは豊中運動場の質の高さに驚き、次々と好記録をたたき出した。
しかし、選手たちの熱戦をよそにスポーツを取り巻く社会情勢に暗雲が広がり始めていた。
14年7月に始まった欧州大戦(第一次世界大戦)は4年目を迎えていた。開戦当初の日本は軍需景気で沸きに沸いた。好景気を背景に中等学校野球などを中心にしたスポーツへの関心が一気に高まり、競技人口は急増し、各地で開かれるスポーツ大会は大勢の観客でにぎわった。開設されたばかりの豊中運動場は、日本初の総合グラウンドとして全国から注目を集めた。
ところが欧州大戦が泥沼化して先行きが見えなくなり、景気は冷え込み始めた。景気の低迷はスポーツの現場に嫌な影を落としていく。
関西ではそこへとどめを刺すかのように発生したのが淀川大洪水だった。
日比大会から4カ月たった9月末、猛烈な台風が関西を襲った。台風は京都や大阪に記録的な豪雨をもたらした。淀川の水位は急速に上がり、10月1日早朝に高槻で堤防が決壊したのを皮切りに、吹田や大阪市内でも次々と決壊。淀川から分かれる神崎川の堤防も随所で切れ、淀川の右岸一帯は高槻から大阪湾河口まで約24キロが水没してしまった。
被害は当時の28町村に及び、5870ヘクタールが濁流にのまれ1万5000戸が被災した。現在の豊中市でみると、庄内を越えて小曽根あたりまで冠水したという。箕面有馬電気軌道は、淀川に架かる十三橋梁が何とか持ちこたえたものの、神崎川の三国橋が流されたため、長期間にわたって渡し船でしのぐことになった。
長い間水が引かず、復旧・復興にどのくらい時間がかかるのか見当もつかない。豊中運動場への貴重なアクセスである箕面有馬電気軌道の再開のめども立たなかった。とてもスポーツ大会を開けるような状況ではなく、年内の大会はすべて中止となった。
スポーツ人気が高まったとはいえ、大正時代当時の社会全体から見ればスポーツは二の次三の次の存在に過ぎなかった。大人気の全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)の開催が鳴尾運動場に移り、重い空気が漂う豊中運動場は、景気の後退や自然災害の影響まで受けてしまい、開場以来最も厳しいシーズンとなった。
しかし一方で、そんな重い空気を払いのけようという力が動き始めていた。
「鳴尾で中等学校野球」なら「豊中は学生フットボール」でアピールできないか。
当時、ようやく中等学校や高等学校に広まり始めていたラグビーやサッカーの全国大会を、豊中運動場で開催しようと動き出した人たちがいた。現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会につながる「日本フートボール優勝大会」の誕生だった。(松本泉)2016.11.29
更新日時 2016/11/29