気軽にお寺に④萱野三平の墓碑 豊中・新福寺
「忠ならんと欲すれば孝ならず 孝ならんと欲すれば忠ならず」の一文を大石内蔵助(くらのすけ)に送り、赤穂藩士の萱野(かやの)三平は、吉良邸討ち入り前に自刃した。享年28歳だった。その墓碑が境内にある。水谷進護住職は「正式の墓は箕面にあり、ここにあるのは記念碑のようなもの」と説明する。
寺は、旗本の大嶋氏の祈願所。三平の父は大嶋家に仕えた。三平も家臣となるが、大嶋の推薦で浅野内匠頭(たくみのかみ)の小姓になった。
江戸城松の廊下の事件で、浅野が切腹し、三平は苦しい立場となる。大石らの血判状に名を連ねるが、父からは「あだ討ちに加われば、大嶋家に災いを及ぼす」と諭される。忠と孝の板挟みである。
三平の姉は伊丹一文字屋助三郎長好に嫁いだ。一文字屋は三平の義挙に感銘して、この墓碑を建てた。水谷住職が記念碑と位置付けるのは、先代住職が墓を移した際、「骨はなかった」と聞いたからだ。
水谷住職は墓碑のそばに石の説明板を建てた。三平の辞世の句「晴ゆくや日ごろの心の花曇り」から、悩みの深さに感じ入ったからだという。(梶川伸)
=地域密着新聞「マチゴト豊中・池田」第36号(2012年3月1日)
更新日時 2012/02/15