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編集長のズボラ料理(408) 新タマネギの即席和風ピクルス

量を多く作っても、結構たべられる

 モミジは秋よりも、初夏の方が好きだ。
 秋の紅葉も悪くはないが、それは遠目の逆光でのこと。近寄って順光で見ると、シワシワ、カサカサだとわかる。
 逆光だからこそ、スケスケ感があらを隠す。素顔は葉が落ちる前の老いの姿で、何となく自らの年に重ねてしまう。
 その点、青紅葉はみずみずしい。若さの輝きがある。近寄って逆光にかざせば、光の半分が通り過ぎてくるようなすがすがしさがある。新緑の時期はモミジに限らず、木々は生気にあふれている。だから「新」という文字がふさわしい。
 新には初々しい響きがある。新さえついていれば、好印象を持つ。新ジャガ、新ショウガは、春の喜びを感じる。
 新米は秋。新酒は冬。それも良いが、やはり春には及ばない。新キャベツは春キャベツと言い、もろに春のウキウキ感を表現する。新ゴボウは春ゴボウとは言わないが、若ゴボウという名がつき、春から初夏の若々しい明るさと合致する。
 食べ物を離れるが、「新世界」はどうか。ドボルザークの場合は、チェコからアメリカという地に移ったことを交響曲「新世界から」に表した。これも希望や前向きの感じがする。
 では、大阪市の新世界はどうだろう。高さ100メートルあまりの通天閣がシンボルで、展望台からは下界を見下ろすのではなく、あべのハルカスのような超高層ビルを見上げ、その低さを誇る。
 たたき売りの店は30年ほど前に姿を消したが、スマートボールの店は健在だ。最近のパチンコのように、アッという間に終わるのではない。玉の動きはスローモーで、穴に入るか外れになるか決まるまでに時間はゆっくりと過ぎ、あくびをする余裕もある。そんなユルユルさは、昭和生まれで敏捷さを失ってきた僕たちにはうってつけだろう。
 100円で玉を買うが、何度やっても玉がうまく穴に入らずに終わってしまったことがあった。すると店のおばちゃんが、玉を穴に入れてくれ、ジャラジャラと玉を人情で出してくれた。そんなネットリ感は、新世界というより、旧世界ではある。
 再び新に戻る。新タマネギを薄くスライスする。軽く塩をふり、サッとかき混ぜる。酢と白だしをかけ、よくかき混ぜて、しばらく置いておく。
 これは新タマネギに限る。新タマはやがて旧タマに変わる。スーパーでは徐々にではなく、突然姿を消すので、早く食べなければならない。タマがなくなって悲しんでいても、スーパーのおばちゃんがかごに入れてくれるわけではない。(梶川伸)2020.05.05

更新日時 2020/05/05


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