豊中運動場100年(38) 等学校野球大会 投攻守さえる秋田中 山田中を大差で破る
豊中運動場で1915(大正4)年8月に第1回大会が開かれた全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)では、大阪の企業や商店から賞品提供の申し出が相次いだ。主催する大阪朝日新聞はかたくなに断り続けている。優勝校に対して大優勝旗と各選手に優勝メダルを贈るほかは、参加した全選手に銅製の参加章を渡すにとどめることを決めていた。
しかし「優勝チームには賞品を渡して栄誉をたたえるべきだ」「せっかく遠くから来たのに気の毒だ」というような声が上がる。結局、優勝校の全選手に対してスタンダード大辞典、50円分の図書切手、腕時計を、準優勝校の選手には英和辞書を賞品として贈ることになった。また初戦に勝ったチームの選手には万年筆を贈呈した。「万年筆の次はどんな賞品が出るんだろう」とひそかに楽しみにしていた選手も少なくなかったという。
ただ翌年の第2回大会からは「学生スポーツに賞品はふさわしくない」とされ、優勝旗、メダル、参加章以外は大会前日の茶話会で渡す粟(あわ)おこし1缶だけとなった。ちなみに粟おこしは1997年の第79回大会まで参加全選手への贈呈が続いた。
大会2日目の8月19日。第2試合は秋田中と山田中(三重)が激突した。
秋田中は東北大会の優勝校。ただ東北大会といいながら参加は秋田県の3校だけだった。大阪朝日から全国大会開催の連絡を受けた秋田中がそれで出場権を得たと思い込んでしまう。しばらくして「予選結果を送れ」という連絡を受けて大慌てしたようだ。東北大会を開催する時間などなく、急きょ秋田県内の3校を集めた予選を実施し圧倒的な強さで出場を決めた。つじつま合わせのような予選での決定だが、秋田中が後に豊中の本大会で決勝戦まで勝ち進んだことを考えれば、全国トップ級の実力があったのは間違いない。
一方の山田中は、11年の歴史を誇る東海五県連合野球大会で優勝を飾っての出場だった。東海大会には三重、愛知、岐阜から各2校計6校が参加。変則的なリーグ戦で2勝をあげた山田中と豊橋中との決勝となり、9回表に1点差まで詰め寄られたものの逃げ切った山田中が5―4で出場権を得た。
試合は投攻守に勝る秋田中が山田中を圧倒した。秋田中は1回表に敵失で1点を先制。3回表には渡部純司選手の中越え2塁打などで2点、4回表には一死満塁の好機からさらに3点を追加するなど着実に得点を重ねた。山田中は六回裏に沢山松緑選手の中前適時打で1点を挙げるにとどまる。結局9―1の大差で秋田中が勝利を収めた。
秋田中は長崎広投手が相手打線を3安打に抑える好投を見せる一方で、一番・渡部選手や三番・鈴木粂治選手を中心とした強力打線が爆発した。わずか1失策という堅い守りも光った試合だった。(松本泉)2015.02.03
▽二回戦(8月19日)
秋田中
102300201=9
000001000=1
山田中
(秋)長崎―渡部(山)西川―菊川武
秋田中 33 8 9 5 3 3 1
打 安 振 四 犠 盗 失
山田中 29 3 12 3 0 2 8
更新日時 2015/02/04