豊中運動場100年(91) 日本フートボール・ラグビー 1回戦で東西の雄激突
1919(大正8)年の豊中運動場は、第2回日本フートボール優勝大会=現在の全国高校ラグビーフットボール大会、全国高校サッカー選手権大会=で始まった。「中等学校野球は鳴尾」「ラ式蹴球(ラグビー)とア式蹴球(サッカー)は豊中」とのイメージが定着してきたものの、野球と比べるとフットボールの認知度はまだまだ低いだけに熱戦が期待された。
大会は1月18、19日の2日間。前年の第1回大会と同様に、南北にラグビーコート、東西にサッカーコートを設け、両方のコートが十字形に交わった。1回戦からラグビーとサッカーの試合を交互に行っていった。
今回はラグビーの1回戦を見ていこう。
出場したのは、全慶応、同志社大学、同志社普通部、京都帝大、三高、京都一商の6校。前年より2校増えたものの、大学チームや大学生、高校生の出場を認めたままだった。同志社が大学と普通部に分けてチーム編成したが、純粋な中学チームとしての参加は同志社普通部と京都一商の2校のみ。両チームは「少年軍」と呼ばれた。
1回戦の第1試合は全慶応と同志社大学が対戦した。当時の日本のラグビー界の東西の最強チームが激突することになり、1回戦ながら事実上の決勝とみられた。
オレンジと黒のユニホームの全慶応に対し、藍色に濃紺のユニホームの同志社大学は前年に獲得した優勝杯を高く掲げて入場した。
午前11時20分に始まった試合は、予想通り鍛え抜かれた実力のぶつかり合いになった。前半7分に慶応が平賀選手のトライで3点を先制。後半も慶応が優位に試合を進め、終了2分前に大地選手がトライを決めた。前年は試合を棄権して全同志社に優勝を譲った形になった慶応が6-0で同志社大に快勝した。
第2試合は京都帝大と同志社普通部が対戦した。選手の体格も違えば実力にも差がある。「普通部は簡単にひねりつぶされる」というのが大方の予想だった。
ところが同志社普通部は大学生相手に大健闘する。京大は前半、吉田選手のトライで3点を先制する。しかし後半になって疲れが目立ってきた京大に対し、同志社は果敢に攻撃を仕掛け、原槙選手が同点に持ち込むトライ。3-3のまま延長戦の10分間に入ったが、両チームとも得点はなく引き分けとなった。
京大のショックは察するに余りある。同点で一旦ノーサイドになったものの、大会本部に強行に延長戦を主張。受け入れられたものの、結局勝つことができなかった。
第3試合は三高と京都一商がぶつかった。高校チームに立ち向かう少年軍に同情が集まり、豊中運動場は「頑張れ京都一商」の声援に埋まってしまう。
しかし、試合は三高が圧倒した。前半に大村選手のトライと丹下選手のキックで8点を挙げた三高は、後半にも10点を奪取し、18-0で京都一商を破った。
体力差や体格差があっても果敢に攻め込んでいくのがラグビーの魅力の一つだ。少年軍が豊中運動場で示してくれた。(松本泉)
【第2回日本フートボール優勝大会】
(ラグビー・1月18日)
全慶応 6-0 同志社大学
京都帝大 3-3 同志社普通部
(引き分け)
三高 18-0 京都一商
=2017.07.20
更新日時 2017/07/20