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豊中運動場100年(70) 日米野球を開催/第1戦は日没で引き分け

豊中運動場での3連戦に挑むハワイ・セントルイス大(上)と慶応大(下)の選手たち

 1916(大正5)年秋の豊中運動場は、大阪毎日新聞社が主催するハワイ・セントルイス大学―慶応大学の日米野球戦が注目のイベントになった。
セントルイス大は10月15日に来日。東京で慶応大、早稲田大、明治大と試合を重ねたあと来阪し、11月4日から3日間にわたり慶応大と3連戦することになっていた。
セントルイス大野球部は、当時の日本の野球ファンにはおなじみのチームだった。1907(明治40)年に外国の野球チームとしては初めて来日し、慶応や早稲田と対戦。翌年には慶応大がハワイに遠征している。その後も交流が続いており、日米野球の先駆けをつくったチームとして人気だった。
日露戦争で連合艦隊の名参謀として知られる秋山真之はセントルイス大が初来日した1907年に、慶応大との試合を観戦している。大学予備門(後の一高)の学生当時から野球に熱中していた秋山は、初めて日本に来た外国チームをぜひ見たかったのだろう。敗れた慶応大に「試合のときはふんどしを締めよ。心を落ち着かせ知力や気力を充実できる」などと書いた手紙を送ったとされている。
話が少しそれたので元に戻そう。セントルイス大は11月3日に東京で明治大と対戦、同日午後7時発の夜行列車で慶応大とともに大阪に向かった。翌4日午後2時開始で第1戦が組まれており、相当な強行軍だった。
初めて豊中運動場を見たセントルイス大のアーシャ監督は「すばらしいグラウンドだ。お世辞ではなく日本へ来てこんなグラウンドを見るのは初めてだ。広さもいい。こんなグラウンドでこそ思う存分腕が振るえる」と絶賛している。また4番打者のマジス選手は「日本に来て以来、初めて見る立派なグラウンド」と激賞し、傍らにいた慶応大の鍛冶仁吉選手に「こんな立派なグラウンドで戦えるのは本当にゆかいだ」と声を掛けた。
慶応大に誤算が生じる。三宅大輔主将が発熱で第1戦を欠場することになったからだ。三宅主将は内野の守備の要の二塁手でもあり、不安を抱えての試合になった。
大阪医科大学の佐多愛彦学長の始球式で第1戦が始まった。
セントルイス大は1回表、先頭打者のダムショット選手が初球をいきな2塁打。マジス選手が中前に適時打を放ち先制した。2回表にはジーバー選手の内野安打、5回表にはピーターソン選手の犠飛でそれぞれ追加点を挙げてリードを広げた。
一方の慶応大は、2回裏に無死1、3塁、3回裏に1死2、3塁の好機をつくったがいずれも得点に結びつかなかった。
セントルイス大の調子がおかしくなったのは5回裏だった。慶応大は3連続四球で1死満塁とするとスクイズで1点奪取。続いてけん制ミスなどで乱れた守備を突いて一気に2点を返し、同点に追いついた。スクイズのホームインの判定を巡って、捕手のマジス選手が顔を真っ赤にして猛抗議したため、試合が15分間も中断している。
6回以降はセントルイス大・クランプラー、慶応大・森秀雄両投手の好投が光り、両チームとも得点できない。同点のまま延長戦に入ったが、日没が近づいたため11回で引き分けとなった。
クランプラー投手は10奪三振の一方で、四死球を10も記録する乱調だっただけに、何回かの好機に攻め切れなかった慶応大の打線に悔いが残った。決着は第2戦、第3戦に持ち越しとなった。(松本泉)

▽ハワイ・セントルイス大―慶応大
第1戦(11月4日)
ハワイ 11001000000=3
慶応  00003000000=3
 (日没11回引き分け)

■写真説明 豊中運動場での3連戦に挑むハワイ・セントルイス大(上)と慶応大(下)の選手たち

ハワイ・セントルイス大学 秋山真之 大学予備門

更新日時 2016/08/01


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