豊中運動場100年(58) 技術、記録が驚異的アップ/陸上競技練習会で成果
大正初めの陸上競技は科学的技術やトレーニングとは無縁の世界だった。ひたすら力任せに走ったり跳んだりして記録を出そうとしたため、国際大会では全く歯が立たなかった。特に専門的な技術が必要な短距離走や跳躍ではせっかくの能力を生かし切れない選手が大勢いた。現在では小中学生が習得している短距離走のクラウチングスタート(両手を地面につけて屈んだ姿勢でのスタート)さえ知らない選手が大勢いた。
科学的な練習で最先端の技術を身に付けて世界に通用する選手を育てようと、豊中運動場で1916(大正5)年6月13日から約1カ月間、6回にわたって「陸上競技練習会」が開かれた。主任コーチのF・H・ブラウン氏の指導の下で、関西のトップアスリートが技と心を根本的に磨き直して羽ばたいていった。
土砂降りの雨になった第2回練習会では、ブラウン氏が「全競技の中で自己流のくせを直すのが最も難しい」と指摘していた走り高跳びを取り上げた。ブラウン氏は「水平棒の中央の垂直点から1歩半ぐらい手前で踏み切れ」といったような基本中の基本から指導、選手はずぶぬれになりながら練習を繰り返した。
第3回練習会は気温30度を超える炎天下で開かれた。ブラウン氏から手取り足取りで砲丸投げの指導を受けた伊藤鉄五郎選手は、日本オリンピック第3回大会での自身の優勝記録をほぼ1メートル上回る10メートル7を投げて驚異的な実力アップを見せる。またスタートと走法を徹底的に教え込まれた神戸高商の奥村良一選手も、日本オリンピックの自身の100ヤード優勝記録11秒を10秒8に塗り替えた。このほか、220ヤード障害では神戸高商の福井孝一選手が日本オリンピック優勝記録を更新する30秒4を記録。科学的なトレーニングで技術を習得することがいかに大切かをどの選手も痛感した。
走り幅跳びも自己流が幅を利かせている競技だった。基本的なことさえ教えてもらったことがない選手が多く、あまりのお粗末さにあきれたブラウン氏は「左右どちらが自分の得意とする脚か間違えないように踏み切る」といったことから指導しなければならなかった。
後半は雨で延期が続く中で、指導陣に東京高等師範研究科の金栗四三氏や大阪医科大の木下東作教授らが参加した。プログラムは着々と進み、日本に入ってきたばかりの円盤投げは3メートル近くも飛距離を伸ばし、100ヤード走は最高で0・5秒もタイムを縮めた。
豊中運動場に集まった当時の日本の最強のコーチの指導で、選手たちは著しい成長を見せた。翌年の5月に東京で開催される第3回極東オリンピックに向けての課題も明確になった。
ただ、翌年の極東オリンピックで直ちに成果が出たわけではなかった。課題の短距離走や跳躍、投てきではフィリピンや中国の壁はまだまだ大きく、最先端のテクニックを覚える科学的トレーニングがますます求められるようになった。(松本泉)
更新日時 2016/02/16