このエントリーをはてなブックマークに追加

豊中運動場100年(57) 挑む科学的トレーニング/陸上競技練習会を開催

短距離走のスタート方法について教えるブラウン氏(手前左)。陸上競技練習会で初めて科学的トレーニングが導入され

 1916(大正5)年6月から7月にかけて、豊中運動場で断続的に「陸上競技練習会」が開かれた。翌年の極東オリンピックに向けての合同強化トレーニングといったところだろうか。
 当時、陸上競技を科学的に教えることができる指導者はほとんどいなかった。街中で足の速い人や遠くまで跳べる人、投げることができる人が、自己流のまま陸上選手になって大会に出場した。前月に開かれた日本オリンピック大会の記録を見ても、ほとんどの競技でフィリピンや中国の強豪選手の記録に届いていない。このままでは日本で初めて開催される国際大会で日本代表選手が惨敗するのは火を見るより明らかだった。
 練習会を主催したのは大阪毎日新聞社。米国YMCAから日本に派遣され、米国流の科学的なスポーツ指導にあたっていたF・H・ブラウン氏に主任コーチを依頼し、基本から洗い直すトレーニングに取り組もうとの試みだった。
 15歳以上の男子であればだれでも参加でき、入会金も会費も不要だった。大阪毎日新聞は1面社告で「各種競技にわたりて科学的研究および実地練習の機会を提供し、第三回極東競技大会に対する一大準備機関たらしめんことを期する」とした。第3回日本オリンピックで優勝した選手はほとんどが参加した。
 練習会は週に1~2回の割合で開催。陸上競技の聖地となりつつあった豊中運動場で技術を磨き上げることになった。
 第1回の練習会は、日本オリンピックの熱戦の余韻が残る6月13日に開かれた。
 集まった30人の選手を前にブラウンコーチが自らの指導理念について熱っぽく語った 「私のコーチは来年の大会に間に合わせるというような姑息(こそく)なものではない。数年後に効力がでてくるように永久的な基礎をつくることを主義にしたい」
 「古いスタイルを変えれば速力は一時的に遅くなるかもしれないが、いつまでもそれに固執していては決して上達しない。新しいスタイルを完全に習得すれば確実に優秀な記録を得ることができるようになる」
 ブラウンコーチが最初に取り上げたのが短距離走のスタートだった。短・中距離走は日本選手の記録がなかなか伸びない種目だっただけに、ブラウンコーチは第3回日本オリンピックの100ヤード走を例に挙げてスタートの大切さを説いた。「優勝した選手は走力では2位選手に劣っていた。しかしスタートが優れていたため優勝できた」
 自己流のスタートが抜けない選手が多かったものの、何度も練習を重ねるうちに目に見えるようにタイムを更新していった。豊中運動場での新しい科学的なトレーニングが、日本選手の実力を着実にアップさせていった。(松本泉)2016.01.12


陸上競技練習会 極東オリンピック 大阪毎日新聞社 日本オリンピック大会 F・H・ブラウン

更新日時 2016/01/12


関連地図情報