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豊中・桜井谷窯跡群 継体朝のもと、大増産か

桜井谷窯跡群2-2号窯跡の窯詰め状況(豊中市教育委員会提供)。現地説明会には専門家からアマチュア愛好家まで、さまざまな人が来るので、誰にでもわかりやすく見せるのは大変という

 2012年7月から発掘調査が行われた豊中市宮山町、桜井谷窯跡群の2-2号窯跡が、窯の天井や作りかけの須恵器が残った全国的にも珍しい状態で発見され、注目を集めている。
 発掘作業を担当した豊中市教育委員会文化財保護チームの陣内高志主査は、「思ってもいない状況で見つかり、興奮と同時に責任の重大さを感じた」と語る。2-2号窯は5世紀後半の操業当時に、天井の一部が崩落した後、奥に須恵器(すえき)を残して放棄されたと考えられ、作りかけの高坏(たかつき)や甕(かめ)も出土している。調査は2012年末に終了し、現在は埋め戻されている。
 桜井谷窯跡群は、これまで約40基の窯跡が確認されている。千里川流域は燃料となるまき、水、粘土、斜面がそろっていたため、5世紀末から7世紀ごろまで、須恵器の一大生産地だった。大阪大学文学部の福永伸哉教授は「当時、北摂地域を勢力下に置いていた継体大王が、権力を掌握するために須恵器の大増産をしていた。崩れた窯から、ほぼ出来上がっていた須恵器を取り出さずにいるのは、掘り出すより新しい窯を作る方が早いと考えたからではないか」と推測し、当時の継体朝の勢いを示唆していると見る。
 豊中市教育委員会は出土した須恵器などを、他の遺跡の出土品と比較し、継体朝の特徴が見られるかどうかを検証していく。作業は豊中市立東丘小学校の空き教室で行われているが、出土品を入れた箱は廊下や教室に数百箱積まれており、地道な修復作業が続く。土器のかけらの泥を落とし、見本がないパズルを組み合わせるような作業は根気がいるが、片岡明美さんは「だんだんと形になっていくのが面白い」と、手を休めずに話した。
 窯跡の調査報告書は2015年度中に発表する予定だ。豊中が日本史の重大ポイントになるかもしれない。(礒野健一)

更新日時 2013/11/12


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