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「生命」の祈り込めた画家・吉田堅治 欧州で高い評価

妻の寛子さんが眠る、パリのモンパルナス墓地に立つ吉田堅治。自らの墓も生前に用意していた(2008年撮影、吉田元寿さん提供)

 画家・吉田堅治を知っているだろうか。1924年に豊能郡秦野村(現在の池田市渋谷)で生まれた堅治は、存命の日本人画家として初めて大英博物館で個展を開いたほか、イギリス・カンタベリー寺院やフランスのユネスコ本部でも個展を開くなど、欧州で高い評価を得ている。

 池田師範学校(現・大阪教育大学)に入学した堅治は、美術部やバスケットボール部で活躍するが、時代はそんな活動を許さなかった。美術部で指導した古城戸優(ふるきど・まさる)さんは、戦時下で「銃よりも絵筆をとれ」と教え、その考えがあだとなり戦中に獄死する。

 1944年、繰り上げ卒業となった堅治は海軍に入隊。カミカゼ特攻隊に選抜された。しかし共に訓練を重ねた友が命を散らす中、堅治への出撃命令は終戦まで出ることはなく、生き長らえることとなる。こうした経験が、2009年に84歳で死去するまで、抽象画の世界で「生命」と「平和」を一貫して描き続ける、吉田堅治という画家を生んだ。

 戦後、池田市立呉服小学校などで教師をした堅治は、1964年に単身渡仏し画業に専念する。渡仏前の作品は全体的に黒のイメージが強く、その後、金や銀、さらに鮮やかな青や緑、赤といった色彩が加えられていった。形はシンプルなものが多く、命を育む繭(まゆ)や、勾(まが)玉のようなイメージが描かれる。

 堅治は創作の前に般若心経を唱えていた。それは仏教的なものというよりも、生かされていることに感謝し、戦争の犠牲になった人への鎮魂として、普遍的な「祈り」を捧げる行為だった。
池田市に住むおいの吉田元寿さんは「抽象画といって、難しく考えなくてもいい。堅治は生前、作品の解説をあまりせず『見る人それぞれの感性のまま、受け入れてくれればいい』と話していた」と懐かしんだ。(礒野健一)

吉田堅治 抽象画 大英博物館

更新日時 2012/03/22


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